本年度は、4年間の研究期間のうちの1年目であるため、これまでですでに相当程度できあがっている研究仮説を改めて点検し、研究の方向性を微修正しながら、枠組みの再構築を進めるよう心がけた。その過程において、再確認すべきポイントが鮮明になると同時に、思いがけない発見もあり、新たな知見や研究の視座を得ることができた。 第一に、「自己実現=自我実現」を研究する際に、「人格」や「人格の完成」についてもあわせて注目すべきことが再確認できた。明治維新から第二次世界大戦前までの時期には、「自己」や「自我」が独善に陥ることへの警戒感から、個人と社会との関係のあり方に焦点が当たり続けて、その調停・統合概念として「人格」が最大のキーワードとなり、自己実現は「人格実現」や「人格の完成」といった表現に置換されがちだったのである。 第二に、「人格の完成」という表現に関しては、戦前の教育勅語と戦後の教育基本法とが連続性を持つという発見ができた。教育基本法で「教育の目的」とされている「人格の完成」というキーワードは、井上哲次郎が教育勅語について解説を加える中ですでに「教育の目的」の一つとして明確に用いられていた。したがって、この言葉の扱い方について、戦前と戦後とでどのような異同があるかを明らかにするという新たな課題が生まれた。 第三に、ファシズム期に「自己実現」や「自我実現」の意味合いが半ば強引なまでに国家主義的解釈に引きつけられていくメカニズムが明らかになった。つまり、これらは価値的に空白なので、その中味を規定する価値を挿入できるという恣意性を前提として、「自己および自我は国家においてこそ実現するものだ」と解釈する流れがあった。その典型例として、吉田熊次は「忠孝」を「完全なる自我の実現」とみなし、井上は「立派な日本人としての自我実現の適切なる方法」が教育勅語や軍人勅諭に示されていると述べている。
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