本年度は、「自己実現=自我実現」の思想的展開および社会的受容の様子について包括的な言い方をすれば、大きく三つの流れに分けて捉えることが可能だと判明した。 第一の流れは、自己および自我は「個人の内面において実現するものだ」という考え方である。これは、西田幾多郎の哲学、大正期の白樺派、阿部次郎の人格主義などに顕著である。この流れは、社会との関係云々よりも「個人としての自己」を深めることを優先するため、社会的に普及するにつれて、自己の欲望に身を任せようとする発想に偏向していったり、個人主義の牙城と化していったりしたという側面がある。 第二の流れは、自己および自我は「個人と社会との関係において実現するものだ」という考え方であり、個人と社会との調和の中に「自我実現=自己実現」を見出すものである。それは、個人偏重主義になることを恐れる反動で、「社会」さらには「国家」を第一義に考える思想へとスムーズに移行しがちであり、井上哲次郎・吉田熊次・紀平正美などが中心的役割を果たしながら展開された。 第三の流れは、自己および自我は「人間と神との関係を中核にして実現するものだ」という考え方であり、「自我実現=自己実現」が自己と神との調和的概念として理解されたのである。元々は神的要素が強かった西洋の自己実現思想は、日本に輸入される際、多くは神的要素を骨抜きにされた。しかし、綱島梁川などの少数派であるとはいえ、西洋的な神を想定して自己実現を考える人もいたし、時代を下るにつれ、自己実現思想と東洋的な汎神論との類似性を指摘する人も出てきた。 これらの三つの流れが各々独自の展開を示したり、他の流れとせめぎ合ったり合流したり、さらには乗り換えがあったりしながら、自己実現思想は重層的に形成されていった。
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