平成19年度は、個人主義・国家主義・神秘主義の相互の関係性に注目した。研究は、戦前の自己実現思想の展開として、「自己実現」や「自我実現」というキーワードとして、個人主義と国家主義とが対立しながらも、根本的なところでは通底しあい、ときに両者が結合していくという奇妙な逆説を解明するために行われた。その手がかりとなったのは、文学研究者の鈴木貞美が、大正期に広範囲にわたる多彩な思想運動が展開されつつも、どの分野でも「生命」という言葉が氾濫していることに着目して名づけた「大正生命主義」である。なお、この用語は、哲学者の中村雄二郎や宗教学者の山折哲雄などの支持を得て、研究者の間で普及しているものである。 明治期以来、「真の自己」が何であるかということが特に哲学分野で問題となり、その中で自我実現思想を経由する思想家も相次いだが、大正期には、自我の根幹に「生命」を潜在的に置いた思考が優勢となった。その際の最大ポイントは、死が「生命」と必ずしも対立するものではなく、ときに「より大きな生命の流れ」の一部の現象とみなされる場面が増えてきたことである。こうして、「自我」や「自己」とは個人の解放を主導したキーワードであったのにもかかわらず、「生命」を媒介として神秘化し、個人を超える普遍的思想へと逆説的に展開していったのである。だが、1923年の関東大震災を前後とする時期に、生命主義が「大宇宙の生命」といった普遍主義的発想から「民族の生命」といったナショナリスティックな観念に集約される傾向が顕著になり出した。 本研究成果により、神国主義的な自己実現思想が井上哲次郎・吉田熊次・紀平正美らによって昭和初期に力説されていた事実についても、生命主義の神秘的側面の洗礼を受けた人にとっては、こうした考え方が違和感なく受け入れやすいものだったのではないかという推測が可能となった。
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