本年度は、主に次の二点について研究を行った。第一に、wrongful life訴訟など、出生をめぐる倫理的課題に関する理論的考察の深化。第二に、そうした課題を念頭に置きつつ物語論の視点を導入して行った、障害を持つ人の「語り」の収集である。 第一の課題については、wrongful life訴訟の核心をなす出生についての否定的評価は、そのような人の存在についての否定的評価を含意するのかという問題を中心に、これまでの議論を総括した(報告・論文「出生の評価と存在の価値」)。それによれば、D.パーフィットのような理論的立場からすると、出生の評価と存在の価値を区別することは可能であり、実際にそのような区別が要請される場面もある。しかし、あえてそのような区別をしないという立場も可能であり、優生思想への批判の多くはこの立場からなされている。ところが、このような区別をするかどうかで、wrongful life訴訟のような出生をめぐる倫理的課題の位置づけは大きく左右されるのである。 第二の作業は、当事者の「語り」という角度からこのような問題に迫ろうとするものである。本年度は、昨年度の「試行分析」を踏まえ、障害を持つ人の「語り」の聞き書きを開始した。その前提として、本年度修士講座に受け入れた障害を持つ学生の協力を得て、聞き書きに至るまでの信頼関係の構築方法や、聞き書きの具体的な進め方について検討を重ねた。その成果は、地域の障害者団体への協力要請や、新たな聞き書きを開始する際にもひな形として活用できるようまとめ、公表した。また、新潟水俣病訴訟の資料の中からも、妊娠規制を受けた女性やその家族の「語り」を抽出する作業を行った。 本年度はさらに、このような研究を背景として、日本の生命倫理の特質を考えるという、より大きな課題にも取り組んだ(共著『日本の生命倫理 回顧と展望』)。
|