本年度は顧頡剛と『古史辨』に参画した代表的な学者の生平及び業績、そして相互の人間関係を研究した。それらの活動状況によって区分した次の4時期をそれぞれ研究した。すなわち、1.1893年の顧頡剛誕生から1916年(23歳)で上京するまでの江南時代;2.北京大学入学以降『古史辨』出版までの青年時代;3.1926年(第1冊出版)から1940年(第7冊出版)までの『古史辨』時代;4.それ以降1980年の死に至るまでの壮老時代である。第1期では江南地帯での学問形成の様相を研究した。清朝末期の江蘇省蘇州市の「書香」漂う家庭に生まれたその特殊性と普遍性を解明した。第2期の研究では、師の胡適との交流に重点を置いた。「疑古」史観の端緒は胡適との学術交流の中ではぐくまれたものであった。無論崔述の『考信録』との出会いも無視できない。また銭玄同との邂逅は後の『古史辨』出版に直接つながっていった。これらを研究した。なお、崔述の疑古史観が江戸期日本の富永仲基が唱えた「加上説」に強い影響を受けたものだということが、近年中国の歴史学界でようやく自明のものになってきたことが分かった。第3期の研究は、『古史辨』学派と呼ぶべき一つの学派の発生・成長・成熟の諸過程を解明することに努めた。15年で7冊を刊行した『古史辨』が、当初は「層累地造成的古史」という学説を武器に学会に切り込んだ顧頡剛のワンマン雑誌であったものから、第6・第7冊に至ると呂思勉や楊寛が編集を担当するまでに成熟した過程を研究した。得られた主な知見は、疑古派史観は当時、反-封建主義の新しい歴史観と認められていたが、魯迅のような進歩的知識人によっても受容し難い独特の歴史観であったことだ。最後の第4期の研究で得られた新知見は『古史辨』に参画した多くの学者が人民共和国でも要職に就いた一方、疑古史観は共産主義とは相容れない非科学的な学説と見なされていた事実である。
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