本研究の目的は、「責任感情」の探求である。フッサールの他者論を克服するためM.シェーラーやM.アンリが提唱した情感性に基づく他者経験の議論は、依然として有効かつ重要なものである。しかし、彼らの議論は「愛」や「共感」という自己と他者の一体化の境地を他者経験の最高段階と見なすため、他者性を喪失させる危険をはらんでいる。そこで、情感性の中でも、自己と他者の隔絶を前提としつつ、なおかつ両者を結びつける「責任感情」に着目し、これを本年度はレヴィナスのうちに探った。 まず、レヴィナスの他者論が、実存主義、構造主義、ポストモダニズムとは異なる潮流に属しつつ、それらとどのように関わりあっているのかを『ポストモダン時代の倫理』において考察した。そして、他者という主題を現象学とは違う文脈において再検討することで、レヴィナスの問題設定の妥当性を確認した。 次に、レヴィナスの『全体性と無限』について、彼が強調する他性とはいかなるものかを「孤独な感受性-レヴィナスにおける内面性の考察一」で検討した。レヴィナスは、感受性として閉じた内面性を提起しつつ、同時に他性への超越を説く。このアポリアを詳らかにし、同じく情感的な内面性を提唱しながらレヴィナスとは正反対の内在の哲学を説いたアンリと対比させ、情感性による他者経験の限界と共同体の不可能性をレヴィナスの側から明らかにした。 さらに、「共感」や「愛」などを全体化作用として退けた場合に、自己と他者を結びつけるものとして残される「責任」を、「責任の起源-レヴィナスにおける非対称の倫理学-」で考察した。レヴィナスの「責任」は、サルトルのそれとは異なり、自己と他者との非対称な関係に基づいている。そのような関係がいかにして可能かを探求し、「責任」が自己の内面性についての「罪責感情」と密接に関わりあっていることを明らかにした。
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