本研究の目的は、自己と他者とを根源的に結びつけるものとしての「責任感情」の探求である。フッサールの他者論を克服するために、M.シェーラーやM.アンリが提唱した情感性に基づく他者経験の議論は、有効かつ重要なものである。だが、彼らの議論は「愛」や「共感」という自己と他者の一体化の境地を他者経験の最高段階と見なすため、他者性を喪失させる危険を孕んでいる。そこで、情感性の重要性を踏まえつつ、他者性を堅持すべしという立場から「愛」や「共感」の全体化作用をも批判して「責任」を重視したレヴィナスを取り上げ、その責任論の到達点を探った。 まず、「自我の解体-レヴィナスにおける絶対的受動性の探求-」において、レヴィナスの前期の代表作『全体性と無限』と後期の代表作『存在するとは別の仕方で』の架橋を試みた。そこでは、感受性の概念の変容を手がかりとして、絶対的受動性の強調によって存在そのものの解体がいかにして徹底されたのかを追究した。そして、「責任」のいわば極点ともいえる「身代わり」という新たな概念の下で、自己と他者の非対称の倫理がどのように確立されうるのかを検討した。 さらに、『社会と感情』の第二部第三章「責任と罪悪感-レヴィナスにおける神学と倫理学のあいだ-」を担当し、レヴィナスの倫理的地歩がどこまで宗教と近接しているのかを解明した。自己にのみ峻厳な倫理を課すレヴィナスの倫理学は、他者を神に近似のもの、自己を罪あるものと見なすことで成立している。そこで、責任や身代わりの裏面に付き纏う「罪悪感」に着目し、その根源性を検討することを通して、レヴィナスの倫理学の宗教性を洗い出し、その射程を明らかにした。
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