19年度は、大正期から昭和期の日語学校の実態について明らかにすることを目的とした。研究計画にそって、九州教育学会で口頭発表を行い、論文は『キリスト教社会問題研究』に「関東大震災後の日語学校の再建」と題して投稿し、採択された。 本年度の研究では、関東大震災後から日語文化学校と名称変更する昭和5年までの日語学校の実態を明らかにした。その結果、代理校長であったギルバート・ボールズの戦略により、日語学校は、日本語と日本文化を講義する学校から学外者に対して日本文化を講義し研究する場として機能していったことが明らかになった。日語学校が日語文化学校と名称変更した理由は、このような新しい文化事業を新たに取り入れた結果であった。 日語学校が新事業に着手した理由としては、次の二点があげられる。第一に震災によって生徒数が激減したために経営難に陥ったことである。日語学校は主として生徒の授業料収入によって経営されていた。生徒数の激減は学校の存続に関わる問題であった。また震災により校舎が倒壊したため、神戸で教育を再開し、一時期、神戸と東京の二カ所で学校経営を行ったことも経費を圧迫することになった。 第二に、来日宣教師に課されていた当時の宣教師側の要求である。宣教師たちには、日本語だけではなく多方面の仕事に就ける新しい資質と日本における諸団体との連携が必要とされていた。本研究では、ボールズが日本研究センターとしての役割を日語学校に付与することによって、諸団体と関わりながら、宣教師側の要求と日語学校の存続の問題を解決しようとしたことを解明した。
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