15世紀後半に広大な領域を確保したモスクワ大公国はその存立を正当化することにより、ルーシの地の盟主としての正統性を不断に主張せねばならなかった。同じ状況は、ヴァシーリー2世時代のいわゆる内戦期にも生じた。ヴァシーリーはモスクワを中心としたその所領回復を伝統的正当化し、ダニーロヴィチ(上記ダニールの子孫)の正統的後継者であることを主張した。 同様の事例は、コンスタンティノープル陥落以降のモスクワの態度にも表れている。モスクワは正教国家の正統的後継者としての意識を持ち始めた。もちろんこれは自然に実現するわけではなかった。隣国リトアニアもまた、正教国家としてのアイデンティティの確保に努めていた。そうした中で、モスクワは、おのが正統性を不断に主張する必要に迫られた。 正統性の正当化は、国家及び国家権力の専売特許ではなかった。正教会においても同様の事例が見受けられた。本研究では、15世紀末に修道院長ヨシフ・ヴォロツキーが行ったおのが立場の正当化について検討された。キリスト教を正統的イデオロギーとする世界においてその教義を巡る正統と異端の問題は当事者にとって深刻な問題であった。当時生じた修道制批判を受け、ヨシフはある程度それに対応して改革を行うと同時に、批判者こそが異端であるとする言説を作り出し、それによって自らの正統性を確保した。 最後に、異なる角度から正統性の問題を考えてみたい。すなわち、モスクワは1497年に初めて全国法典を公布した。その作成の際に、編者たちは、単にモスクワにおいて伝統的であった法規範をまとめたわけではなかった。上述のような、これまで最低でも二百年程度にわたり異なる国家に属してきた領域が大半である中で、モスクワはおのが法をそうした地域に押しつけることをせず、ビザンツの世俗、教会法、また全ルーシ的法規範(成文・慣習法を含め)のなかから、モスクワに受け入れられる「正統的」法規範を選択し定めたのである。
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