ヨーロッパ近世の「知」は、とりわけ15世紀においてきわめて緊張を孕んだ状態にあった。その革新的表象が、活版印刷術の成立を契機として制作されたインキュナブラであり、50年間に2万7千冊が印刷され流通したことは長い間研究者の注目を集めてきた。しかしこのような印刷本の革新性は、手写本が羊皮紙の上で作り上げてきた技術と販売網、読書のハビトゥス、なかんずく15世紀に各地に現れた世俗の筆写工房による大量生産システムを基盤にしていた。本研究は、当時最大規模を誇ったエルザスのディーボルト・ラウバー筆写工房に注目して、写本制作の歴史的・社会的背景およびその影響を解明しながら、手写本がいかに印刷本普及の基盤を整備し、「知」の社会状況を変化させるに至ったかを考察する。 前年度からの延べ2カ月半の現地調査により、本年度は現存するラウバー写本のほぼ完全なリストを作成することができた。これらの比較検討によって判明したことは、およそ以下の通りである。まず同工房の活動期が3期に大別され、それぞれ異なる様式を採用していること、そして初期には周辺地域の芸術に影響を受けたのに対して、中期にはフランス、ブルゴーニュ等の先端芸術を模倣するに至ったことである。ここから、写本の顧客の変化ないし市場の変化・拡大を推定することができる。つぎに写本の購入・所有者の分析により、初期には2つの在地貴族の姻戚関係を中心とする顧客層の存在があったことが判明した。エルザスからシュトラスブルク、オーストリアへと拡がる人的ネットワークであった。中期以降の様式変化には、都市貴族の存在が推定される。つまり、工房は一つのネットワークから別のそれへと基軸を移しながら顧客層を開拓したのである。研究成果の一部は論文として発表し、研究会において報告を行った。なお、ハイデルベルク大学のSaurma教授には研究上の助言をいただいた。
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