1.ブローデルによれば、近世において、外国人の存在は都市や国家の繁栄度を計るものであるとされるが、16世紀の国際都市リヨンでは多くの外来者がどのようにリヨン社会に入り込んでいったのか、居住区の中で「他者」とどう向き合ったのか、さらに宗教戦争期、都市の中にはどのような宗派の分断線があったのかについては、まだ明らかにされていない部分が大きい。これまでは総体としての都市と主権の関わりを検討の対象としてきたが、今後は住宅や街区に即しながら視点を住民の位置に据え、都市的な広がり、地方、国家を視野に収めることで、政策的構想と実態的展開の双方をふまえつつ、住民の実態や行政の機能のあり方を分析していきたいと考えている。昨年度に実施した史料調査で、リヨン市文書館の都市民兵関係文書の中に、1596年に市参事会が街区長に命じ行わせた住民調査記録が見つかった。これはリヨンの住民調査記録としては伝来する最古の史料と思われる。今年度はこの手稿文書の解読を行うことに集中した。この記録には、16世紀における多数な、「よそ者」の定義、住民の形態、徴税や犯罪の実情など、街区と外国人(主にイタリア諸都市出身者)の実態に迫る貴重な情報が収められていた。またこれまでの研究では、大市の衰退後リヨンは閉鎖的な社会に変化したような印象を受けるが、不遇の時期を経つつも18世紀まで固有の分野では交流拠点としての位置を保ち続けたと思われる。以上の問題について、研究会等で発表・発言を行った。 2.16世紀末にリヨンがリーグに与した後アンリ4世に平定されるまでの経緯に関して、単にアンリ4世の改宗によって、都市はカトリックの王に対して抵抗する論理的理由をなくしたとすることで、40年にわたる紛争の終結が説明されてきた。しかしながら様々な分派に分裂した都市において、こうした諸集団の宗派的政治的分裂が、その後どのように再編・統合されるに至るのか、また都市上層部はどのような共有しうる都市アイデンティティを模索していったのかについては、ほとんど注目されることがなかった。とりわけこの1594-1608年の間には、祝祭や図像を通じて、国王や都市をめぐる新しい記憶の創出が試みられていたのである。図像資料を多く駆使したこの成果に関しては、早稲田大学で行われたシンポジウム「中・近世ヨーロッパ都市の政治と文化-権力・コミュニケイション・プロパガンダ-」で発表を行った。
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