アルザスは1870年から1945年まで、独仏間で4度の帰属変更を被ったが、特に1940年のナチス・ドイツによる併合と強力なゲルマン化、ナチ化は、アルザスに現在に至るまでの、所謂「塞がらない傷」を負わせた。1990年代以降活発化した第二次世界大戦期の体験に関する研究および個人的手記、回想録、書簡集等の公刊を分析することにより、以下のことが明らかとなった。1940年以前は「フランス人」であった若者たち(その中には第二次大戦勃発時にフランス兵として戦った者もいた)は、1942年、「ドイツ人」としてドイツ国防軍に徴兵され、8割が東部戦線へと送られた。その結果アルザスは、(第一次世界大戦と同じく)第二次世界大戦も、フランスとは異なる体験を被ることとなる。この「異なる体験」が、アルザスがフランスのナショナル・ヒストリーにおいて「居場所がない」という意識を持ち続ける原因となり、またその「居場所」を求める(=ナショナル・ヒストリーへの包摂を要求する)心性が、アルザスにおける極右政党への賛同といった現象を生じさせる遠因となっている。さらに戦後フランスに「復帰」したアルザスでは、「内地」と同じく対独協力者処罰の嵐が吹き荒れたが、戦時中置かれていたコンテキストの違いを無視しての「浄化」は、アルザス内部での対立と混乱と生じさせた。そのアルザス内部の亀裂を塞ぎ、共通の「被害者」としての意識を立ち上げたのが、オラドゥール事件にかかわった強制召集兵たちが裁かれた「ボルドー裁判」であり、この13人の被告の体験を「アルザス全体の体験」と読み替えることによって、アルザスは戦後フランスにおける自身のポジションを確立したと言えよう。
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