本研究は、立石寺とその周辺を空間的・時間的に広い視野から検討し、霊地・霊場としての成立・展開を解明することが最大の目的である。霊地霊場研究は、ある時代を特定して、各地の霊場を比較検討するような視点はこれまで多数存在するが、時代を超えて一つの霊場を把握する試みはほとんどない。まず2005〜2006年にかけて現地踏査の結果、古代の痕跡は根本中堂と円仁入定窟周辺といった非常に限られた空間に存在することが判明した。しかし中世期に入ると、現在の寺域外も含めて周辺には広範囲に石造文化財や関連施設が分布することが判明した。五輪塔や板碑などの資料が、千手院地区や高瀬地区にまで広範囲に発見でき、大きな画期と認めることができる。特に、峰の裏地区では五輪塔を調査し、文永九(1273)年・康永三(1345)年・康応元(1389)年・明徳三(1393)年等の紀年銘や、他地域からの僧侶名などの銘文を確認した。また、本地区に散在する礎石跡の分布や地名について調査し、中世期の本地区の重要性を明白にするに至った。近世以降の立石寺については、全域の石造文化財や諸資料の分布を調査した結果、中世段階と霊場としてのあり方が異なる可能性が出てきた。よって他霊場との共通点、及び立石寺独自の特徴を導き出す目的のもと、2006年〜2007年には各地の大規模霊場を精力的に踏査した。比較検討の結果、近世段階では特に四国金比羅神社周辺等のように、庶民信仰に根ざした霊場と非常に良く似た形態であることが判明した。
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