本研究の目的は、冲縄・読谷村において「地域文化」と米軍の間でいかなる相互作用が展開されてきたのかを実証的に明らかにすることにある。平成19年度は、第二次世界大戦後の読谷村における物質文化の変容の一側面として、「読谷山花織」といっ織物の衰退と復興の過程に焦点を当てて、現地調査を行なった。また、並行して、これまでの沖縄研究の成果をあらためて整理し、本研究の意義を位置づける作業を行なった。 500年以上の歴史をもつとされる議谷山花織は、20世紀に入ると徐々に哀退していき、特に第二次世界木戦後、アメリカ的な消費社会化が進むなかで、人びとの生活のなかで用いられることなくなっていた。しかし1960年代半ばに、当時の村長が、読谷山花織の復興を提唱し、これを大きな契機とし、失われつつあつた読谷山花織の技術の復元が進められた。その後、1972年の施政権返還を経て、日本本土で読谷山花織の存在か次第に知ちれるようになると、読谷山花織は地場産業として発展を遂げていった。一方、施政権返還後の読谷村では、米軍基地の撤去と米軍基地に依存した経済からの脱却を進めようと様々な取り組みに着手していた。そしてこうした状況のなかで、読谷山花織には、米軍基地に対峙する読谷村の文化のシンボルとしての意義が見いだされることになった。本年度の現地調査を通じて、以上に概括的に述べたような読谷山花織の衰退と復興の過程、そして読谷山花織に新たな意義が見いだされるに至った過程を詳らかにすることができた。
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