本研究は、徳島県阿南市伊島を拠点とした漁民が、器械潜水技術を用いて出稼ぎ・移住を展開した漁民移動と、それにともなった文化伝播の一端を解明しようとするものである。 本年度は、主として(1)現地調査、(2)博物館等所蔵資料調査、(3)文献調査によりアプローチした。(1)では、今治市宮窪町、韓国慶尚南道統営市、済州道済州市、佐賀県太良町、阿南市伊島、坂出市櫃石島、倉敷市下津井において現地調査を行い、伊島漁民の器械潜水漁による出稼ぎ地の変遷について把握した。(2)では、瀬戸内海歴史民俗資料館、太良町歴史民俗資料館において当該資料の調査を行い、データを得た。(3)は、徳島県における戦前期の朝鮮半島出漁に関する文献資料「清韓実業視察報告書」「伊島漁協文書」「朝鮮海域出漁史料」等を新に見いだした。いずれも、本研究において重要な史料であり、今後(1)での成果とあわせて検討した。 明治後半以降昭和初期にかけて、伊島漁民は朝鮮半島南部統営方面で器械潜水漁に従事し、昭和20年以降昭和40年代にかけては、瀬戸内海を中心にイガイ、タイラギ漁における潜水夫としての活動してきた。当時の事実関係については出稼ぎ地において詳細に確認できるほか、在住する移住者も確認でき、一時期にはコミュニティを形成していた。ごく一部の潜水漁経営者をのぞくと、出稼ぎ者の多くが潜水夫として短期で雇用され、各地で器械潜水漁に従事していた。しかし、昭和40年代には多くの伊島漁民が港湾工事いおける潜水夫の仕事へと移行し、替わって佐賀県太良町出身の潜水夫が、瀬戸内海の器械潜水漁潜水夫として雇用されるようになった。潜水夫の根拠地は、伊島と太良町に二分されることとなる。なお、出稼ぎ地で使用される採貝具の系譜の比較、出稼ぎ地から伊島へ持ち帰って自給的に栽培されてきたサツマイモの同定を行うことにより、出稼ぎ・移住によりもたらされた伝播も明らかになる。
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