本年度は、これまでキャンベラのオーストラリア国立公文書館において入手したASPACに関する一次資料を整理し、改めて精読することで、入手済みの資料によって、ASPACの発展および活動に関する事前調査に費やすことになった。本来ならば、本年度中にアメリカへの資料収集に向かう予定であったが、それよりも事前調査を十分に行い、効率的な海外調査を来年度以降に行うほうが研究を進める上で有益と考えた。また、1960年代から1970年代にかけてのアジア情勢、および当時の加盟各国の外交政策を扱った書籍、研究論文などの二次資料の収集に随時努め、事前調査をさらに充実させた。また、資料の目録のデータ化などの研究補助作業のため研究補助者の助けを借りた。 今年度の事前調査により、アジアにおける地域主義の具現化の一例としてのASPACの概要についての仮説をある程度確認できたといえる。ASPACは、アメリカの対アジア政策の大きな影響下において形成されたという側面は否定できない。しかし、加盟各国がその制約された状況の中で、政治/経済/社会問題についての協議や具体的な協力を進めようという動きを見せていたことも事実であった。そしてどのように協議や協力を進めようとするかについては、様々な路線対立が存在していた。その際に特に注目すべきなのは、日本、オーストラリア、フィリピン、タイ、マレーシア、中華民国、韓国の動きである。またASPACにおける「アジア太平洋」という「我々」=「地域」の紐帯は、明らかに外部の敵としての中国を意識したうえでのそれへの対抗という要素を強く含んでいた。しかしこうした各国の中国への脅威認識や域内協力についての思惑が、アメリカの意思をどれほど忠実に再現し得るようなものであったかは疑わしい。よって、ASPACをアメリカの「下請け」と単純化するのは誤りであろう。 ASPACの展開を規定していた(1)アメリカの対アジア政策(2)中国の動きに対する各国の認識(3)あるべき域内協力についての上記主要加盟国の認識の三つがどのように絡み合っていたか、さらに明確にする必要がある。
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