本年度は、1956年のスエズ危機後の解決過程を検討した。一般的に、イギリスは対エジプト戦争という時代錯誤的な武力行使の結果、世界世論の非難を浴び、対米関係を極度に緊張させ、中東の事実上のイギリス帝国は崩壊したと議論される。だが実際は、危機後に国連緊急軍がエジプト領内など(シナイ半島南端、スエズ運河地帯、ガザ地区)に駐留したことで、エジプトの主権は大きく毀損され、イスラエル船のティラン海峡通航も容認させられた。またパレスチナ解放を唱える主導権も失ったエジプトは、対イスラエル関係でも、他のアラブ諸国関係でも政治的敗北を喫したと言える。さらにエジプトはスエズ運河再開に際しても、通航する船舶との係争が生じた際には国連の管轄権に服することを認めさせられた。これは事実上、イギリスが危機を通じて求めていた運河の国際統制に相当するものであった。 つまり危機の終結過程は国連とアメリカによるエジプトの封じ込めを意味しており、治安維持や運河管理などの責任を両者が肩代わりしたことを意味する。イギリスは1954年にエジプトと締結したスエズ基地条約により、1956年夏までスエズ地帯に軍事プレゼンスを保っており、これがアラブ・イスラエル戦争の再発を防いできたのである。停戦受託の結果イギリスの威信は一時的に大きく傷ついたものの、従来の責任を国連とアメリカに引き継ぎ、エジプト封じ込めに成功したのである。同時にそれにより、イギリスはエジプトの創り出した混乱に乗じてソ連が影響力を拡大することも阻止できた。こうしてスエズ危機の結果もまた、ルイスとロビンソンの唱える「脱植民地化の帝国主義」という戦略の一環だと位置づけることができるのである。
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