平成30年度は、運動部活動の指導者が著した自伝や評伝(=指導者言説)を分析するための枠組みの精緻化をまず試みた。これまで、中心的な教育的価値として議論の対立軸だった「規律」と「自主性」に着目し、その二項対立的な把握の仕方を乗り越えることが本研究の一貫した課題であった。そのために、本研究ではフランスの思想家であるミシェル・フーコーの議論を参照した。具体的には、後期フーコーの統治性論における自由と安全の作用と戦略の論理の視座から、「規律」と「自主性」を「教育的価値」ではなく生徒の振る舞いを導く「教育的技法」として捉える必要性を指摘した。そうすることで、一見相反する「規律」と「自主性」を、どちらか選び取るべき「教育的価値」ではなく、生徒の振る舞いを導くための「教育的技法」として両者の関係性をも含んだ分析が可能になるからである。 その上で、1970年代半ばから1980年代の「指導者言説」を分析した。そこには、3つの特徴的な語りを見出すことができる。まず、当時の生徒の利己主義、無気力、無感動、無関心といった問題が認識されるなか、「人間教育」としての運動部活動という主題が浮上していたこと。次に、そのような状況において、一方では「自主性」が指導者の課す厳しい練習等の「規律」それ自体に向かって発揮されるべきものとして語られていたこと。しかし他方で、「規律」を中心とした指導の困難さが語られるなか、指導者たちは練習と試合を住み分け、前者に「規律」を後者に「自主性」を割り振るという手法に活路を見出したことである。ここに、「規律」と「自主性」の配分問題という、これまでの研究で着目されてこなかった新たな問題設定を見出した。これは、指導者の規律的指導によって自主性が奪われているという単純な見方を退け、運動部活動がある種の自由さを生み出しながら、日本社会に位置づいてきた可能性を示唆する成果である。
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