まず、電球工業の生産組織と企業動態について検討した。具体的には、大蔵省『大日本外国貿易年表』を用いて、1920年代から1930年代における電球の輸出額の推移を把握した。その結果、先行研究で指摘されているアメリカ向け輸出の増加傾向に加えて、蘭領印度および、英領印度への部分品輸出が無視できない割合で続いていたことが確認できた。また、商工省『工場統計表』および『工業統計表』を用いて、同時代文献や先行研究で指摘されている小規模作業場の存在を確認したが、統計調査上にほぼ現れないことがわかった。これらの研究成果は、経営史学会関東部会と、経営史学会全国大会において発表した。次に、電球工場と関連産業の工場の立地の関係を考察した。東京府『東京府工場要覧』、東京市『東京市工場要覧』を用いて、東京府内に存在した電球工場及び部品であるガラスの工場の立地を把握した。その結果、ガラス工場は本所深川を中心に旧市域に集中している状態から徐々に新市域の南方へも増えていったのに対して、電球工場は観察時点の最初から芝区および品川町周辺、本所深川周辺、淀橋町周辺と大きく3つの地域に分かれて立地したことがわかった。すなわちガラス工場の立地は、電球工場の初期立地の一つの要因になっていたことがわかった。この研究成果は、社会経済史学会全国大会で発表予定である。最後に、織物業との比較の結果、電球工業が織物業と大きく異なる点は、有力な生産問屋が存在しない点であることがわかった。有力な生産問屋が原材料の供給などの手段で他の生産者を組織する織物業と異なり、電球工業の場合は、電球組立を担う生産者は各種部品の生産者から部品を買うのが主流であり、他の生産者に対する組織力を持っていなかったと考えられる。部品産業を含めた大規模な組合を組織しようとした際に足並みが揃わず、製品価格の低下に歯止めをかけられなかったのは、このためだと推測できる。
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