前年度の研究においては、ボナヴェントゥラの秘跡理論を中心に考察しました。秘跡の遂行を肉から霊への「転回」と考える彼の議論にとって「霊の内容」とは「肉の否定」に他なりません。この発想を補助線にするなら、先行研究が説明に失敗していた彼の美論の一部についても、整合的な解釈が可能となるのでした。 以上の研究成果を踏まえて、最終年度の研究ではボナヴェントゥラの修道会理論を検証しました。彼が托鉢修道会に所属していたという事実が彼の思想、とくに彼の美学にどのような影響を与えたのかという問題を、従来と異なる角度から考察することがその目的でした。 ボナヴェントゥラは、一般のキリスト教徒と托鉢修道会士の違いを、義務的に信仰を守るか、自発的に厳しい戒律を実践するかの選択に求め、これを「未完成」と「完成」という用語で説明します。そして重要なのは、表面上は未完成な行為(たとえば死への恐怖)も、その動機の完全性(キリストは人類を救済するために敢えて恐ろしい運命を受諾する)によって補完されるという論理です。この論理を敷衍すれば、キリスト教徒は、キリストの苦痛を自分たちの悦楽に価値転倒させるという洞察が得られます。 ここから、修道会則の「完成者」についての彼の説明が理解可能となります。完成者は自らに降りかかる受難を一方では肉の目線で苦しみながら、他方では受難を苦しむ自己自身を霊の目線で喜んでいるのであって、これが彼にとっての「魂の美」なのです。 以上の議論は一貫して「わざ(opus)」の問題として扱われています。つまり、哲学が「自己認識」についての思考なら、「自己制作」についての思考が、彼の美論の特徴です。自分で自分を作る――それが彼の言う「美」なのでした。以上をもって、ボナヴェントゥラの托鉢修道会的美学について一定の研究成果を得られたはずです。その一部は文芸学研究会題66回研究発表会にて発表しました。
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