研究課題/領域番号 |
17J06295
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研究機関 | 大阪大学 |
研究代表者 |
黒木 萬代 大阪大学, 人間科学研究科, 特別研究員(DC1)
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研究期間 (年度) |
2017-04-26 – 2020-03-31
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キーワード | ドゥルーズ / メイヤスー / バディウ / 思弁的実在論 |
研究実績の概要 |
本研究の目的は、新しく世界的な思想の潮流となっている思弁的実在論の中心的論者であるカンタン・メイヤスーの議論および彼のジル・ドゥルーズに対する批判を分析しながら、ドゥルーズ哲学を再考することである。しかし、それは無条件にメイヤスーの議論や批判を受け入れることではなく、その妥当性をドゥルーズ哲学の側から吟味しながら、メイヤスーを始めとする思弁的実在論者たちが目指す、カントに端を発する相関主義に支配されたモダン‐ポストモダンの乗り越えという問題意識を共有しながら新しいドゥルーズ哲学の可能性を模索することである。 以上のような目的を達成するために、その基礎の部分として重要となってくるのが、メイヤスーの師であるアラン・バディウの展開する数学による存在論であり、また彼の用いる数学とドゥルーズの用いる数学との差異である。というのも、メイヤスーはわたしたち人間と関係なく存在する第一次性質としての世界に唯一アクセス可能なものとして数学を特権化し(「数学化可能なものは、思考の相関項には還元し得ない」,Meillassoux, Apres la finitude, 2006, p.117)、言い方を変えれば数学的に記述可能なものこそわたしたち人間と関係なく存在する絶対的なものであると主張しているが、そこで前提される数学はバディウの哲学の核を為す集合論であるからだ。メイヤスー自身は、バディウのように「存在=数学」とは主張しないにしても、「数学化可能なもの=絶対化可能なもの」と主張するからには、そこで言われる数学がどのようなものであるのかという点を探ることは、彼の論を理解する上で、またドゥルーズ批判がどのような立場からなされ、それにどのような反論が可能であるのかを考える上でも重要である。故に、本研究はまず、ドゥルーズが用いる数学とバディウが用いる数学の差異を明らかにすることを目指した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究実績の概略で述べたように、ドゥルーズの用いる数学とバディウ‐メイヤスーの用いる数学の差異を明らかにすることは、絶対的なものにアクセスする唯一の方法として数学を特権化するメイヤスーの議論を理解する上でも、また彼のドゥルーズ批判(主観主義的な形而上学を形成しているという批判)を理解しその妥当性を吟味する上でも必要不可欠なものである。そのため、本研究ではこの点に焦点を絞り、研究を進めた。 バディウは「存在論=数学」と定義し、「数学だけが存在を思考することができる」(Court traite d'ontologie transitoire, 1998, p.72)と主張したが、そこで想定されている数学は「公理的集合論」である。しかしながら、ドゥルーズにとっては、存在はバディウ的な数学=公理的集合論に還元可能なものではない(このような存在の公理的集合への還元については、例えばルーベン・ハーシュによっても疑義が呈されている”Review of Number and Numbers by Alan Badiou, translated by Robin Mackey”, 2009)。むしろ、ドゥルーズにおいては、数学の「問題的」な側面が強調され、「公理」はそのような数学の問題的な側面を抑圧することで成り立つものとされる。また、「公理」は「メジャー科学」と結び付けられ、「問題」は「マイナー科学」と結び付けられることとなる。このように一口に「数学」といっても両者の力点は正反対の位置にある。 以上のような研究成果から、さらに両者の数学的立場の違いを念頭に起き、バディウの系譜を引くメイヤスーが思弁的唯物論で構想する数学による絶対的なものの救い出し方に対するドゥルーズの立場からの反論を用意するところまで研究を進めることができた。よって進捗状況はおおむね順調に進展していると言える。
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今後の研究の推進方策 |
今後の研究としては、これまでの研究成果を踏まえて、ドゥルーズとバディウ‐メイヤスーの数学的な立場の違いを明確にした形で両者の議論を整理し、メイヤスーの議論の問題点を指摘していく。また、数学的な立場の相違にとどまらず、ドゥルーズとメイヤスーの偶然性の議論や時間論についても比較検討していく。その上で、メイヤスーの議論に対する様々な反論をサーベイしながら、メイヤスーによるドゥルーズが主観主義的形而上学を成しているという批判の反駁を試みたい。さらに、バディウを男性的存在論、ドゥルーズを女性的存在論と分類するメディ・ベラジ・カセムの議論を参照しながら、それぞれの存在論の差異を確認し、そこに申請者がこれまでの研究で定式化したドゥルーズが用いる「サディズム」と「マゾヒズム」という区別を接続しながら、ドゥルーズ=女性的存在論の特異性を明らかにする。さらにドゥルーズ=女性的存在論を先鋭化するために、ドゥルーズ周辺のフェミニズムの議論の調査も進める。
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