研究課題
当該年度においては、有機分子からなる結晶(分子性固体)を対象に、約1THzの周波数を持つ光パルス(テラヘルツパルス)によって引き起こされる超高速相転移現象を見出すことに成功した。近年、100 kV/cmを超える電場強度を有するテラヘルツパルスの発生が可能となっており、それを用いた固体の物性制御の研究が盛んに行われている。しかし、それらの研究の多くは、テラヘルツ帯に存在する素励起を駆動するのに留まっており、「テラヘルツ電場誘起相転移」を観測した例はほとんど無い。テラヘルツパルスの光子エネルギーは可視光のそれの千分の一程度と小さいため、相転移が起きれば、消費電力の小さい光スイッチなどの新しい光デバイスに応用できる可能性がある。そこで、本研究においては、電場強度が約500 kV/cmのテラヘルツパルスを励起光とし、可視から赤外域に渡る広帯域の光パルスをプローブとする時間分解測定系を構築した。この測定系を用いて、テラヘルツパルスを有機モット絶縁体に照射すると、1ピコ秒(1兆分の1秒)以内に金属化が起こることを実証した。理論的な先行研究との比較から、強電場下で量子トンネル効果が起き、それによって生成されたキャリアをきっかけに金属化が起きていることがわかった。この成果は、Nature姉妹誌のひとつであるNature Materials誌に掲載されている。また、別の有機モット絶縁体にテラヘルツパルスを照射することにより、電荷秩序強誘電相への転移を実現することに成功した。これらの成果は、テラヘルツパルスによる固体の新規な光スイッチング機能性を開拓した点、また分子性固体の物性や相転移の機構について新しい知見を与える点で世界的に注目を集めている。
1: 当初の計画以上に進展している
当該年度においては、テラヘルツパルスを励起源とする有機モット絶縁体の金属相への転移を実現し、その機構について明らかにすることに成功した。モット絶縁体とは、電子間の強いクーロン反発によって、電子が互いに避けあうように原子や分子に局在することで絶縁体となる物質である。この「モット転移」は、様々な強相関電子系物質において観測されるほか、高温超伝導とも深いつながりと持つため、転移における電子系や格子系のダイナミクスについて理解することは、近年の物性物理学の中心的な研究テーマであると言える。本研究では、高強度のテラヘルツ電場パルスによって誘起されたモット転移のダイナミクスを、超短パルスレーザーを用いて高い時間分解能(100フェムト秒=10兆分の1秒)で測定した。その結果、有機分子間の波動関数の重なり積分に対応する時間スケール(約100フェムト秒)で金属化が起きていることや、絶縁体相が格子系によっても安定化されており、金属化の際のわずかな構造変化によって、格子振動が誘起されることがわかった。テラヘルツパルスの光子エネルギーは可視光と比較すると小さく、系の温度上昇を抑えて強電場を印加できるという特性を持つため、以上のような知見を得ることができた。この成果は、固体の物性や電子相を制御するだけでなく、その転移の機構を調べるうえで、テラヘルツパルスを励起光とする時間分解測定が有効な手法であることを示すものである。よって、研究の進捗状況は、当初の計画以上に進展していると評価できる。
今後は、別種の有機分子性固体にテラヘルツパルスを照射し、新しい電子相転移の探索を進める予定である。分子性固体の中には、電子間のクーロン反発と電子バンド幅が拮抗し、強相関電子系に分類されるものが数多く存在する。特に、ET (bis(ethylenedithio)tetrathiafulvalene)という分子からなる系においては、温度変化や圧力印加により、絶縁体相や金属相、超伝導相など多様な電子相が現れる。この系のいくつかの物質において、ETからなる超分子の内部に電荷の自由度が存在し、強誘電的な性質を示すことが報告されている。これまでの研究から、常誘電相の状態にある物質にテラヘルツパルスを照射すると、電場の効果によって電荷の偏りが誘起され、強誘電相へと転移することがわかった。一般に、光を照射すると、電子の秩序が崩壊する方向に転移が起こるため、光によって秩序相を生成することは容易ではない。そのため、テラヘルツ電場によって強誘電相を生成したこの結果は、大きなインパクトを持つと考えている。今後は、テラヘルツパルスの電場強度依存性やプローブ光子エネルギー依存性を測定することにより、転移の機構について調べる予定である。
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Physical Review B
巻: 95 ページ: 241102:1-5
10.1103/PhysRevB.95.241102
Nature Materials
巻: 16 ページ: 1100-1105
10.1038/nmat4967