本研究の目的は、高強度の中赤外レーザーパルスを物質に照射することで、従来の可視光励起では実現できなかった、物質の新規な光応答を見出すことである。前年度は、位相安定な中赤外パルスを発生させるための、新しい周波数変換手法の開発を行った。更に、その手法で発生させた励起用の中赤外パルスと、検出用の可視超短パルスを組み合わせることにより、励起中赤外光の振動電場に対応した物質の光学応答を観測可能なレーザー測定システムを構築した。本年度は、その測定システムを用いて、有機電荷移動錯体テトラチアフルバレンパラクロラニル(TTF-CA)における中赤外光励起の測定を行った。まず、TTF-CAのイオン性相において、中赤外領域に存在する分子内振動を共鳴励起することで、電子―分子内振動結合を介して高速の分子間電荷移動が生じる様子を実時間で観測することに成功した。このような現象が観測可能になったのは、本レーザーシステムでは、前述したように、励起中赤外光の電場波形に対応する固体の応答が観測可能だからである。さらに、電子―分子内振動結合によって波動関数の混成が生じたことにより、基底状態であるイオン性相から中性相への光誘起相転移が生じることも分かった。TTF-CAのような分子性固体において、分子内振動励起をきっかけとする相転移が観測されたのは、本研究が初めてである。一方、分子内振動に非共鳴な励起条件であっても、励起中赤外光の強度が強い場合には、量子トンネル過程という別の機構によって分子間電荷移動が生じ、中性相への相転移が生じることも分かった。これらの結果は、中赤外光励起によって従来とは異なる機構による光誘起相転移を実現しており、光物性の分野において重要な成果であると考えられる。
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