研究課題/領域番号 |
17K00201
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
池上 嘉彦 東京大学, 大学院総合文化研究科, 名誉教授 (90012327)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | なる / 日本語 / 出来(しゅったい) / 推移 / 非動作主化 / 万葉集 / チェコ語 / ルーマニア語 |
研究実績の概要 |
日本語を「<ナル>的な言語」として特徴づけるという筆者の試みは、これまでは「<ナル>的な言語」という概念を「<スル>的な言語」と対比し、<脱/非動作主化>を指向する事態把握が話者によって好まれる言語として特徴づけるという認識であった。 このいわば 'negative' な「<ナル>的言語」の認識に対し、今回の研究費に基く研究では、「<ナル>的言語」と呼べるものの 'positive' な特徴、側面に焦点を当て、それによっていかなる認識が得られるかという方向に考察を転換し、研究を進めてみることにした。 具体的には、日本語における「ナル」という動詞、および他の言語におけるそれと近似する語、ないし語句について、それぞれの言語における<生態>を調査、確認するということである。この点で、守屋三千代教授の科研費による研究とも密接な連携をとることとなり、ユーラシア大陸のかなりな数の言語についても、その方面の専門家、信頼できるインフォーマントを介しての調査、自発的な協力を経て、各言語における興味深い<ナル>の生態が明らかになってきている。 その一端は、年次の研究会と認知言語学会でのワークショップで紹介されてきた。本年度、筆者自身が集中的に取りあげたのは、日本語に関しては上古の『万葉集』に始まる三大和歌集における動詞「なる」の用法の分析と評価、および共通フォーマットによるチェコ語、ルーマニア語についての調査である。 他の研究者による調査と照合していて目立つのは、日本語の「なる」の場合、初発の基本義であった<誕生>/<出現>と<推移>/<変化>のうち、諸言語では前者を中心に意味の展開が進んだのに対し、日本語では後者が中心ということ(例えば、他の諸言語では殆どが「春ガナル」と言うのに対し、日本語は「春ニナル」)で、この特異性が何を意味するのか、極めて興味深い。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
<人間言語>として可能と想定される類型を念頭に置いて、日本語という言語をどのように位置づけ得るかを提示する ― これが本研究の究極的な目標であるとするならば、「<ナル>的言語」というものを、<動作主性>の概念を中核とする「<スル>的言語」に認められる特徴の退化として ‘negative’ に捉えようとするのは不十分、そうではなくて、「<ナル>的言語」を「<ナル>的」として積極的に特徴づける側面に焦点を当てて考察するという方向が妥当、かつ、有効である、という認識は十分に正当なものと思える。今後、この方向で調査、分析、考察を進めて行きたい。 具体的には、現代日本語では否定形の「ならぬ」で<禁止/不許可>を表わすことはできても、「なる」という肯定形で<是認/許可>を表わすことはしない。しかし、トルコ語系の言語にはその両方が可能な言語のあること、また、「~しないようになる」と到達点が否定で表わされる表現は、既に『万葉集』において「~せずなりぬ」という形で定着しているが、「~するようになる」という結果が肯定的な表現は出てこない。こういう<否定価志向性> (negative valency)は何を意味するのか。(「~(ら)れる」の<可能>を表わす助動詞としての発展段階でもかつて同じような<否定価志向性>が見られたとのこと。)また、日本語で「なる」が極めて早い時期から「~に/となる」のかたちで<推移>/<変化>の方向へ意味のずれを示しているのも、後世の「もののあわれ論」の展開などと何か関連づけられることなのかどうか、さらに「なる」が時間の流れを意識した表現であるとするなら、そこには時間を体験する話者自身の存在が含意されている、つまり、日本語話者好みの<自己中心的>な<主客合一的>事態把握のスタンスが認められる― ここまで読み取ってよいものかどうか、興味深い問題が山積している。
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今後の研究の推進方策 |
「なる」相当の語(ないしは、語句)について、異なる語族と類型的分類を横断してその生態を調査してみることは欠かせない。具体的に特に興味をひくのは、タミール語 (‘naru’と表記できる語が存在しているらしい) やアイルランド語 (Buck (1949)では空欄になっている。非人称構文で表示との記述もあるが、気になる) や古典ギリシャ語(<中動態> (middle voice) で表示されるとのこと ― <中動態>という文法形式一般がどのように<ナル>と関わるのか(この点については、3月の研究会で一部筆者の発表で取り上げた)― さらには、かつて細江 (1928)が論じた日本語上古における<中動態>的現象の再検討)など。 いずれにせよ、インフォーマントとしての協力を依頼する人物については、(日本語の「なる」の微妙な意味合い対象言語ではどの程度言語化されうるか、などの問いかけもするので)日本語についても相当度の直観を有することが望ましい。(この制約をどの程度克服できるかは、現時点では見当がつかない。) 他方、上古の日本語についても、さらなる情報が必要である。残念ながら、上古の「なる」について有益な情報を与えてくれる研究は今のところ見つからない。(<可能>という意味合いで一部重複しうる助動詞、「(ら)れる」については、豊富な研究の蓄積があるのとは対照的である。「なる」が日本語史の過程で助動詞化しそうで、なり切れなかったために、辞書レベルの語彙的研究以上の扱いをされなかった、ということであろうか。) 「なる」が当初の<誕生>/<出現>の意味を<出来(しゅったい)>の意味に一般化し、さらに<可能>の意味にまで展開することがなかったことの背後には「(ら)れる」との衝突があったのではないだかと憶測できるが、このあたりについても、「(ら)れる」の研究者からの確認がとれるかどうか、当たってみたい。
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