研究課題/領域番号 |
17K01177
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研究機関 | 大阪府立大学 |
研究代表者 |
中村 治 大阪府立大学, 人間社会システム科学研究科, 教授 (10189029)
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研究分担者 |
新宮 一成 奈良大学, 社会学部, 教授 (20144404)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | 岩倉病院 / 家族的看護 / 保養所 / 南方熊楠 / 看護人 / 入退院簿 / 精神病院 / 統合失調症 |
研究実績の概要 |
岩倉病院の入退院簿(1907年以降の分が残存)を分析すると、1907年~1912年には、京都の患者が35%を占め、滋賀(19%)、三重(8%)、愛知(8%)、兵庫(4%)、大阪(4%)などの患者も多く、東京、四国、九州、北海道、沖縄の患者も見られた。次に、1919年~1922年の分を見ると、京都の患者が60%に増え、滋賀(17%)、三重(8%)、福井(5%)、兵庫(4%)、大阪(4%)、岡山(2%)の患者などはまだ多いが、愛知、岐阜の患者はそれぞれ1%に減った。ただし北海道、九州、沖縄、朝鮮、中国の患者も見られる。ところが、1942年~1945年の分を見ると、京都の患者が69%に増え、他は滋賀(13%)、三重(5%)、大阪(3%)、兵庫(2%)などとなり、岩倉病院は京都近辺の病院となっていった。これは各地に精神科の病院が増えていくことに関係しているのであろう。男女比に関しては、明治時代には男性が7~8割を占めていた。男性の方が力が強く、家族の手におえない人が多かったからであろう。 病名に関しては、「統合失調症・統合失調型障害および妄想性障害」は、1910年代~1920年代には40%前後で推移するが、1940年代に入ると50%を越えた。 岩倉病院に息子・熊弥が入院していた南方熊楠の日記、手紙などを分析すると、岩倉病院は患者に普通の生活をさせることを目ざして看護人をつけることを最良の治療法と考えていた。それゆえ岩倉の保養所と大差ないことになり、しかも保養所の費用は病院入院費に比べ、安かった。岩倉の保養所が大正時代末期から昭和時代初期に繁昌したのは、このことに理由があったと思われる。ところで熊弥の看護人の妻は元・患者であった。看護人と患者がいっしょに暮らすことが、岩倉における家族的看護の良い点であり、そのことによって患者の病状が寛解する場合もあったが、男女の問題が生じる場合もあった。
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