2019年度は最終年度として、現地で最終調査を実施したほか、議論の国際化をめざして、研究成果のとりまとめと公表などをおこない、課題の達成につとめた。 研究代表者は研究目的に沿って、ひきつづき中国、ロシア、モンゴルの諸文書館、図書館で資料調査を実施し、溥儀が書いた詩や絵などの資料を収集した。こうした新たに発見された資料にもとづいて、溥儀とかかわる出来事やその年譜の不明部分をうめ、溥儀文書の全体像を明らかにした。また、これまで収集した中国語・ロシア語・日本語の諸資料を整理し、総合的に分析をおこない、論文「溥儀のシベリア抑留に関する再検討」「写真・映像に見るハルハ河・ノモンハン戦争」「溥儀とデムチグドンロブ王」を執筆し、学会誌に投稿した。その結論は以下のとおりである。 (1)「凌陞事件」および「ノモンハン事件(ハルハ河戦争)」における日本・満洲国軍の敗北は、溥儀に大きな打撃を与えた。(2)社会で知られている溥儀が1945年8月にチタに到着した映像は、到着当日に撮影したものではなく、実際は、後で人為的に撮影したものである。オリジナルの溥儀『我的前半生』(「灰皮本」、1960年版)には「在偽満14年的滔天罪行」という章がある。この章は、シベリア抑留中の1946年はじめ、溥儀が溥傑などと連名で書いた「満洲における日本の覇権」ときわめて似ている。溥儀のシベリア抑留は、ソ連・日本・中国・アメリカといった大国の角逐の結果であり、極東国際軍事裁判は、大国の極東地域をめぐる角逐、対話の代表的舞台となり、溥儀の出廷は、こうした大国の角逐の縮図である。(3)溥儀とデムチグドンロブ王の生涯はきわめて一致するところがあったが、それは、大国の力関係の相互作用によるものである。しかし、二人が1950年に中国に移送されたあと、「改造された」溥儀と「改造されていない」デムチグドンロブ王の余生は対象的であった。
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