本年度においては、「人間学」と「認識論」との関連という観点から、シェーラーをはじめとする哲学的人間学全般とマクダウェルとの比較をおこなうことによって、本研究課題全体の総括を試みた。マクダウェルは『心と世界』において、言語的な概念能力をもつ人間と他の「もの言わぬ動物」との差異を強調する。人間は言語をもつことによって自己意識的な存在となり、自分の経験を外側から眺めることができるようになった。つまり、人間は、自分の経験を越えた「客観的世界」、あるいは自分の信念を越えた「真なる知識」という規範的観念をもてるようになったというわけである。 さて、自己意識の獲得と客観的知識の探究の可能性が結びついているという考え方そのものは、人間の「世界開放性」を強調するシェーラーをはじめとする哲学的人間学の思想家たちも共有するところである。しかし、以下のような相違点も存在する。マクダウェルにおいては、言語が自己意識の獲得と客観的知識という観念の前提条件であった。これに対して、哲学的人間学の思想家たちは、言語的な概念化以前に客観的知識の獲得へと向かう動きが始まっていると考える。たとえば、カッシーラーのシンボル形式の生成の理論においては、言語的概念以前の神話的形式の段階から、客観的知識の獲得のプロセスは始まっている。また、メルロ=ポンティの間主観性の現象学においては、言語獲得以前の幼児はすでに間身体的な世界を他者と共有しており、そのことが成人における客観性の観念の基盤となっているとされる。 私は、哲学的人間学の思想は、マクダウェルのように感性的経験を言語的に概念化してしまうことなく、人間の認識の規範的性格の萌芽を説明できているという点において優れているということを明らかにした。本年度の研究成果は、一部が口頭発表されるにとどまったので、今後は雑誌論文のかたちで発表することを計画している。
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