研究課題/領域番号 |
17K02267
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研究機関 | 立教大学 |
研究代表者 |
林 みどり 立教大学, 文学部, 教授 (70318658)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | フェミニズム運動 / 家父長制資本主義 / ニ・ウナ・メノス / 五月広場の母たち / 集合的記憶 / 潜勢力 |
研究実績の概要 |
本研究の目的は、軍事独裁政権下での制度的暴力の記憶の社会化過程における「想起の政治」のダイナミズムを明らかにする点にある。2021年度は、共同想起の営為が陥りがちなアイデンティティ・ポリティクスやセクト主義の陥穽を回避するオルタナティヴな社会的想起の可能性として、アルゼンチンで盛んになった新しいフェミニズム運動「#NiUnaMenos」や、同運動の代表的なメンバーで、フェミニズムの重要な論客でもある政治理論家Veronica Gagoの思想分析を中心に行った。 軍事政権時代の暴力の記憶を原資に、「過去を繰り返すまい」との共通理念に基づく社会運動はこれまでも存在した。だが、従来の社会運動の多くが特定の政治組織やイデオロギーを体現するセクト主義的な統一的主体を表象したのに対して、新たなフェミニズム運動では統一的主体表象の構築は絶えず先延ばしにされる。最大の理由は、政治傾向や社会的な立ち位置の共通性を前提せず、多様なセクシュアリティやジェンダー、社会的属性の参加者によって運動が構成されている点にある。彼女ら/彼らの運動において、軍事独裁政権下での政治的・社会的・経済的・文化的暴力の記憶は、いまなお続くフェミサイド(女性殺し)やトランスジェンダー、同性愛者に対する社会的・身体的暴力として捉えなおされ、異性愛的家父長制と結びついたグローバル資本主義による収奪構造は、制度的暴力の身体化された認識として共有されている。身体の還元不可能な多数性を基盤に据えた脱資本主義的でジェンダー横断的な生を希求する共同圏域を構想する運動──Gagoのいう〈身体-領土〉(cuerpo-territorio)──においては、ナルシシスティックな統一的主体の表象構築は困難とならざるをえないのである。一連の考察については、「身体-領土の潜勢力──五月広場の母たちからNi Una Menosへ」として上梓した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
パンデミックによる全面的な移動制限や感染状況の悪化にともない、当初予定していた現地調査に基づく研究を行うことはできなかった。そのため、2000年度以降に活発化したフェミニズム運動を中心とする新たな社会運動の分析を中心に考察を進めた。しかし、それだけでは現状分析に終始する可能性があったため、ポスト移行期における人権侵害の記憶の社会化とその機能に関するこれまでの分析を精緻化する作業を進めた。 この作業は思いがけない収穫となった。なかでも大きな発見は、新フェミニズム運動がフィリエートする人権運動組織「五月広場の母たち」や、彼女らと共に「記憶作業」に従事した人権組織「ブエナ・メモリア」や「メモリア・アビエルタ」、制度的暴力を象徴する「記憶の場」の保全・管理・継承をめざす活動等、ポスト軍政期の社会的記憶化に多くの精神科医や心理士が関与している事実である。これまで漠然と認識してはいたが、具体的に分析を進めるうちに、関連する社会運動や人権活動の言説には精神分析学的なジャーゴンや精神分析理論が想像以上に流用され、また心理学や精神医学を知的バックグラウンドに持つ論者や活動家の割合が大きいことが判明した。アルゼンチンにおける社会的記憶化過程は、精神分析学や隣接する専門領域の知のアクターと切り離せないのである。これは他のラテンアメリカ諸国における同種の運動や思想と比較した際のアルゼンチンの顕著な特徴ということができる。 以上、現地調査に基づく研究を行うことはできなかったが、研究の精緻化過程で従来の研究史の盲点となる新たな発見が得られたことから、おおむね順調に進展していると判断した。
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今後の研究の推進方策 |
2000年代以降のフェミニズム運動を分析する過程で明らかになったのは、民主化後の人権運動やフェミニズム運動を主導する理論家らの思想的枠組みが、ジュディス・バトラーやジル・ドゥルーズ、ルイ・アルチュセール等、精神分析理論を応用した欧米の思想家のほか、アルゼンチン出身のラカン派政治思想家エルネスト・ラクラウなど、精神分析学と政治理論を接続させた諸思想との強い親和性がみられる点である。とくにラクラウの場合、アルゼンチンの左派ペロニズム政権の相談役を担うなど、民主化後の左派ポピュリズム運動への思想的影響力には看過できないものがある。一方、軍政下の制度的暴力の記憶化をめぐる社会運動のアクターには、数多くの精神科医や心理士、精神分析家が、精神医療の専門家としてだけでなく、記憶作業を担う一社会構成体として重要な役割を果たしてきたことがわかった。 政治学や法学中心の従来型の移行期研究では、精神分析学的な知と社会運動の関係の分析は、これまで全く光が当てられてこなかったが、軍政下での制度的暴力に関する文化的記憶や「想起の政治」のダイナミズムを解明するうえで急務と思われる。本研究では、集合的記憶の文化装置の形成や関連する言説領域の分析、新フェミニズム運動における「リコレクション」に回収されない記憶化の試みについて考察を行ってきたが、移行期の社会的コンセンサス形成の背後で機能した思想的力学、とくにラクラウ流の左派ポピュリズム政治理論と精神分析理論の交差を、アルゼンチンの社会的・思想的文脈に則して考察する必要がある。そのためには、これまで行ってきた同時代史的な社会言説の分析に加えて、思想的系譜についての歴史的分析を行わなければならない。最終年度は、これら新たに判明した諸課題に取り組むこととする。
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次年度使用額が生じた理由 |
パンデミックによる全面的な行動制限により、現地での資料収集や調査を行うことができず、次年度使用額が生じてしまった。次年度は引きつづき現地の状況次第で現地調査を行う予定だが、現地調査が困難な場合は国内での研究に切り替える。その際は、社会的記憶化過程で重要な役割を果たしてきた精神分析学や隣接領域等に関する資料取り寄せの支出にあてる。
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