本年度は太宰春台の『経済録』の楽論の分析を中心に研究を進めた。荻生徂徠に師事した春台は江戸前期に展開した楽律研究をうけて「律呂通考」を著し、「経済録」「六経略説」等において楽の在り方を論じた。春台の楽論は一口に言えば、古の道である「移風易俗、莫善於楽」という教えを当時の日本で実現するにあたって、聖代の古楽を伝えている雅楽を広め、淫楽となっている俗楽は内容を規制せよというものであったと言える。この結論自体は特殊なものではないが、「経済録」の楽論に特徴的なことは、日本の楽を論評するにあたって、当時の日本の歌舞音楽をつぶさに観察し、それらを歴史の展開に位置付けて論じている点にある。一般に日本音楽史の特徴は、時代が進行する中で新たな種目が生まれても前代の種目がなくなることはなく、時代が下ると多種の種目が併存することにあると言われるが、その特徴は江戸時代にすでに顕著になっていた。春台は当時行われていた多種にわたる種目を通覧し、それらを発祥順に論じることで結果的に今日につながる日本音楽史の枠組みを提示しているのである。春台は楽律研究自体に独創的な成果を残したとは言えないが、古楽の復興を企図して始まった楽律学を梃子に日本音楽史の枠組みを提示するに至っていることは軽視できない。それゆえ、これも近世の楽律学の副産物に数えて良いと考えた。 その他、本年度は名古屋市鶴舞中央図書館所蔵の平岩元珍著「移易新書」の調査を行い、細野要斎が明治6年に同書を書写していることなどを確認した。 期間全体を通じた成果としては、古の聖代の楽律の探究に始まった近世の楽律学は、荻生徂徠が日本の雅楽は周漢の遺音と論じて以来大きく展開し、日本の雅楽の精緻な分析がなされるようになったことなどを示し、その具体例として毛利壺邱、中島高雲、田安宗武等の研究の詳しい分析を行い、それらの意義を示したことがその主なものである。
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