1920 年代パリの前衛芸術運動への日本人アーティストの関与とその文化的背景について、以下のような調査と研究を行った。 (1)イギリス人演出家G.クレイグは、1908-29年刊行の演劇雑誌『仮面』でヨーロッパの前衛劇運動を理論的に牽引していた。そこに掲載された日本の能・歌舞伎・人形浄瑠璃をめぐる多数の記事や書評から、古代ギリシア劇や東洋の演劇と並んで日本の伝統芸能が注目されていたことを確認した。 (2)フランス演劇の革新を企てたJ.コポーは1915年、フィレンツェ滞在中のクレイグやスイスのダルクローズとアッピアから直接に新しい演劇・舞台装置・照明等への示唆を得て、第一次大戦後の1920年にパリでヴィユ・コロンビエ劇場の再開とともに演劇学校を付設し、理想的な演劇を探求した。(のちに日本で文学座を立ち上げた岸田國士は短期間コポーに師事している。)この演劇学校の修了公演で1924年に試みられた「能」作品上演のプロセスとその反響が、いくつかの記録から徐々に見えてきた。 (3)パリの前衛劇・実験劇運動に関わった日本人アーティストのなかで瓜生靖に関する資料は少ないが、1927年の新歌舞伎『修禅寺物語』仏語版公演で(山田五郎とともに)「狂女」役を踊り、またヴィユ・コロンビエ劇場での舞踊公演の共演者・芦田栄が急死したあと、P.アルベール=ビロのプラトー劇場に(人形風の演技等で)参加したことがわかった。 (4)両大戦間期に「演劇の再演劇化」を企てようとした前衛劇の演出家たちが、仮面・身体の動き・舞台空間という点で日本の「能」に強い関心を抱いていたことから、その具体的な様相について、当時の「能」作品の英訳・仏訳の試みと合わせてさらに調査・研究する必要性を認めるに至った。また上記の研究成果を2021年8月にフランス北部Cerisyでのシンポジウムで発表する予定であったが、コロナ禍のため延期となった。
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