2019年度における最大の成果は、飛鳥時代の伝世絵画を発見したことである。すなわち、西明寺(滋賀県犬上郡)国宝本堂須弥壇前方の二本の柱(本堂は西面するので向かって右=南柱、左=西柱)は、永年の薫香や灯明等の煤煙により表面がほぼ黒化しているが、赤外線写真撮影によって極めて古様な表現的特徴を伝える図様の存在が判明した。柱の太さは各々円周約4尺6寸(直径1尺5寸弱)で、梁下から須弥壇上辺付近までの高さ約6尺を画面とする。梁から巾およそ7寸5分の文様帯を経て、各四体の菩薩立像が相前後して中央方向に降下し、背景には厚い雲が立ち上って幾層にも重なり、恰も菩薩たちは天空の巨大な扉を押し広げるように来臨する。 八菩薩の姿態は原則として同一(一体のみ袈裟)で、頭光を負って蓮台上に立つ。細身ながら上背が極端に高い。惜しむらくは、恐らく江戸期の本堂修復時に持物等を加えるなど不空訳『八大菩薩曼荼羅経』に基づく密教化を図り、補筆・補彩が大幅に加えられたことであるが、幸いに西柱の二尊については制作当初の状態をかなり良く保っている。 本図の表現・技法を莫高窟壁画に照らせば、菩薩の耳介は隋代以前、掌の皺は隋代の表現を踏襲しており、いずれも法隆寺金堂壁画に先行する要素であってこれを下限と捉え得る。特徴ある鼻の表現もまた、金堂壁画への過渡期と考えられよう。一方、天衣の文様は玉虫厨子に、姿態の均衡は百済観音像に、両眼の表現は両者共に通じ、これらを上限とすることができる。本図の画家は、そうした古い様式を伝える画師集団に属し、尚且つ金堂壁画に代表される初唐様式の洗礼を未だ受けていない段階にあり、本図の制作も7世紀第4四半期の遺例と見做し得る。すると西明寺本堂は、『日本書紀』天武14年(685)3月27日条「家毎に仏舎を作れ」との詔に応え、在地豪族犬上朝臣が建立した氏寺である可能性が高く、建築史家の再検証が望まれる。
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