研究上、フェミニズム批評が定着して以降、日本の近代文学はいつ女性の内面が書けるようになったのかが問題となっていた。女性作家も必ずしも女性の内面を書いていたとは限らなかった。それは、女性の内面とは実は社会的なものだからである。 社会的な観点からみて、女性の内面を書くとはどういうことかを明らかにすることを目的とした。それは当然のことながらジェンダーの視点を欠くことができない。女性の内面は個人の固有のもの考える思考から解き放ち、社会の中で何が女性の内面とみなされるのかを確定し、それをいつ、だれが、どのようにして、文学として書き得たのかを明らかすることを目的とした。 アメリカの比較文学者ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』で提案した、バトラーは、人間の心と体の生の不一致がトラブルと認識されるのは、セクシュアリティのレベルではなくジェンダーのレベルだとする。この思考を援用し、近代文学上、女性の内面が社会的なレベルにおいて女性の内面として書かれたと判断できるキーワードに、たとえば「矛盾」を選び、その文学上の使われ方を分析した。 当時、女性は統一した自我を持っていないと考えられていたから、女性は「矛盾」と形容されることが多かった。夏目漱石は、初期から「男らしくない」知識人男性を書き続けた。「太平の逸民」と呼ばれる『吾輩は猫である』の登場人物からしてそうである。『坑夫』ではまさに自己の内面が「矛盾」していると感じる青年を書いた。後期三部作では、自己の内面が「矛盾」していることに悩む男性知識人を書いた。これを同時代的な文学状況の中に置くなら、漱石こそが男性知識人を書いているつもりでありながら、図らずも女性の内面を書いてしまっていたのである。このように、女性の内面を書くことの社会的な意味を明らかにした。
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