2019年度は、前年度までの研究成果に加えて、ラウル・スリータの文学創作がポスト軍政期においてどのような社会的役割を果たしたのかを中心に資料整理を進め、また1973年のクーデターが起きた日であり、毎年、軍政時代にまつわる様々な回顧イベントが行われる9月11日の前後にサンティアゴ市を訪問、資料収集のかたわら2014年以降に歴史遺構となった軍政時代の記憶を展示する市内の様々な遺構を見学した。そのひとつサンティアゴ市中央墓苑には政治的失踪者と死亡者の氏名を刻んだ石碑があり、この石碑にはスリータの詩集『その消え失せた愛に寄せるカント』の一節が刻まれ、スリータが詩のなかで実践してきた社会的包摂、すなわち軍政期の人権侵害行為による死者、失踪者など現在のチリには「不在」の人々の尊厳回復という文学的営為が書物のみならずチリの一般社会のなかでも影響力を発揮していることが判明した。同じく政治犯収容施設となった国立スタジアム歴史遺構、秘密警察による拷問施設となった旧グリマルディ邸歴史遺構も訪れ、スリータの詩作品に現れる様々な恐怖表象が、ポスト軍政期に進められた真相究明のプロセスにおいて明るみになっていった事実に呼応していること、最終的に「記憶と人権博物館」という施設が建造されるまで軍政時代の記憶のいわば<再構築>に文学的営為が深く関与していたことが明らかになった。 ディアメラ・エルティッツの文学に関しては、実験的小説『ルンペリカ』、写真家との共作であるルポルタージュ『魂の梗塞』、統合失調症患者のインタビュー禄『わが父』等の読解を介して、作者が軍事政権下およびその時期に出来上がった新自由主義経済体制下のチリにおいてその政治的主体性を著しく希薄化された人々を可能な限り文学テクストに取り込もうとしていることを明らかにした。
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