温泉は、近世ドイツの重要なテーマである。地底から湧出する鉱泉によって病気治療を行う湯治場は、この時代のドイツにおいて、古来の霊的な医学・自然観と、近代の自然科学・資本主義・リゾート開発とが拮抗する独特のトポスを成していた。中世末の聖人伝テクスト、近世の奇譚集、16世紀のTh・ムルナー、17世紀のA・キルヒャー、グリンメルスハウゼンなどを主たる素材として、湯治場ないし温泉をめぐる近世ドイツ人の観念世界を通時的に概観し、近世特有の自然・宇宙観がもつ射程を考察した。具体的な検討の資料としては、当時、個々の湯治場の案内書として数多く出版された「温泉誌」を取り上げ、地域と年代の観点から重要なものを数点抽出したうえで分析した。また併せて、ドイツ語圏やイタリアと等しく豊かな歴史をもつ日本の温泉の習俗・信仰、いわゆる「開湯伝説」、さらには温泉を中心的な主題とする「温泉文学」との対比的考察も試みた。研究の最終年度においては、近世ドイツ文学において最も重要な存在であるグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』(ジンプリチシムス)を取り上げ、その小説の根幹的な箇所に影響を与えた、J・キュッファーの温泉誌(1625年)についての論文を公表した。そこに見られるのは、一つには、近代科学の先駆である即物的視線と前近代的な霊的自然観との独特な混合であり、そしてもう一つには、その霊的なものへの意識に基づく、ある種の根源への意識である。水の由来する源泉への言及は、湯治場の流行という時代相の単なる反映であることを超えて、むしろ個人・人間・歴史そのものの根源への意識を呼び覚ます仕掛けとなっている。そしてグリンメルスハウゼンにおいては、さらにここへ彼独自のアウグスティヌス的・ジャンセニズム的世界観が深く作用していることが、4年間の本研究のなかで推測されるに至った。しかしこれについては別の枠組みでの考察・分析が待たれる。
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