15世紀40年代に成立した、パホーミイ・セルプによる自筆写本『ラドネシのセルギイ伝』(ロシア国立図書館(サンクト・ペテルブルク)、ソフィヤ・コレクション、№1428)の言語分析を行った。本年度はスラヴ祖語の鼻母音「エン」に対してどの文字を使用しているか、また本来、鼻母音を表していた文字「ユース・マールイ」の用法を検討した。鼻母音「エン」はセルビア語、ロシア語ともに非常に早い時期に失われ、前者では[e]、後者では前舌母音[a]に移行した。その違いは綴りにも反映され、セルビア出身者であるパホーミイの自筆写本では、「エン」に対して文字eの使用が認められることはこれまでにも指摘されてきた。本研究が対象としている自筆写本では「エン」に対し、eの他に4種類の文字が使用されている。パホーミイの自筆写本に関しては、「エン」に対する複数の文字の使用とその分布状況の分析はなされたことがなく、本研究ではこの点を詳細に分析した。また、文字「ユース・マールイ」も積極的に用いられているが、その多くは語源的には想定されない位置で使用されている。こうした「ユース・マールイ」の使用条件も分析した。近年、パホーミイの自筆写本や、パホーミイの作品が新たに発見されている。本研究で得られた成果は、それらの書き手・作者がパホーミイであることを言語面から照査する材料の一つとなり得る。 パホーミイがロシアで活躍した15世紀は、「第二次南スラヴの影響」と称される文化現象が最盛期を迎えていた。この文化現象は日本でも多少紹介されているものの、現在の研究成果は考慮されておらず、情報も乏しい。「第二次南スラヴの影響」は宗教(正教)、とくにロシア教会スラヴ語の領域で顕著だった。本年度は、「第二次南スラヴの影響」により生じた使用文字、記号、綴字法の変化、そして歴史的背景に関する概説を、中世ロシア語を専門としない幅広い層に向けて執筆した。
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