ソヴィエト・アゼルバイジャンに集住するアルメニア人のための自治領域、ナゴルノ・カラバフ自治州をソヴィエト・アルメニアに帰属替えする運動は、1964、66年に同自治州の経済向上を求めるアルメニア人知識人の嘆願書がソ連邦政府に送付されたことに端を発する。これが知識人の枠を越え、アルメニア共産党内にも共有されたのかを検討した。まず、1965年から67年にかけてアゼルバイジャン人とアルメニア人の歴史家間で、ナゴルノ・カラバフの先住者がアルメニア人かイスラーム化する以前のアゼルバイジャン人の祖先なのかをめぐる論争が巻き起こった。これにより、知識人の間でナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア系住民との同胞意識が強まることになった。さらに、1975年には、この問題をナゴルノ・カラバフ自治州共産党書記長のケヴォルコフが現地の共産党地方委員会で演説したことに関し、ソ連邦政府はアルメニア共産党に釈明を求めた。アルメニア共産党側は、これは、「内輪」向けの発言としたものの、ソヴィエト・アゼルバイジャン内の枠内でアルメニア人の自治を強化すると主張し、ソヴィエト・アルメニア政府内にも、当時ナゴルノ・カラバフ自治州内でのアゼルバイジャン人の人口増加などで、アルメニア系の自治に対する危機感が表れていたことがうかがえる。 なお、研究期間中、新型コロナによる渡航制限や、航空券代の値上がりなどで、現地文書館・図書館の調査が行えなかったり、日数を短縮せざるをえなかったりといった制約で、当初計画にあった1965年4月に起こったアルメニア人虐殺追悼記念集会で群衆を率いた学生や知識人、さらにはこれに参加した虐殺生存者やその子孫と同時期に上記のナゴルノ・カラバフを移管する請願運動を行った知識人との間に、運動面でどのような影響関係があったかについては明らかにできなかった。今後の課題としたい。
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