研究課題/領域番号 |
17K03067
|
研究機関 | 奈良女子大学 |
研究代表者 |
黒田 洋子 奈良女子大学, 大和・紀伊半島学研究所, 協力研究員 (70566322)
|
研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
|
キーワード | 日本古代史 / 正倉院文書 / 書 / 王羲之 / 王羲之習書 / 草書体 |
研究実績の概要 |
書の歴史は従来、芸術的発展の観点から論じられ、書体の変化や成立に関して、政治・社会的契機との関連性が明らかにされてこなかった。しかし、書は芸術である以前に情報伝達の道具であり、それ自体が情報を含むものである。本研究は、律令官人らが実務の場で書いた書の特質を考察し、歴史学の視点と方法によって分析を行い、そこから歴史資料としての情報を引き出すことを目標とする。 正倉院文書の書状に見られる書を観察すると、草書体の受容という観点に立つことで、いくつかの問題点を指摘することができる。すなわち①楷・行書体の中に王羲之「集字聖教序」の受容の痕跡があること、②一見稚拙にも見えることから「六朝風の古い書風」と言われる、隷書風の書の中に、意図的な省画の書体があること、③僧侶は官人と異なる過程を経て書を習得しており、そのため官人の書とは分けて分析する必要があること、である。本研究では正倉院文書の書の観察から得られたこれら三つの問題点を指標として掲げ、日本の出土史料と中国・朝鮮の出土史料の二方向に対象を拡げて考察する。 考察の対象は、著名な書の作品ではなく、当時の実務官人によって日常業務の中で書かれた実用の書である。もとより歴史資料であるため、その内容や書式・用語などに関しては、歴史学による研究の蓄積がある。それらを踏まえて、従来の書道史では言及されなかった、新たな歴史情報を読み取ることを試みる。 29年度は、研究全体の基礎作業、すなわち関連する史料の写真収集を行うとともに、基本的な観察作業を開始した。また、本年度は上記指標のうち、主に①の王羲之「集字聖教序」の受容に関連して、考察と作業を行った。次年度は①の指標で明らかになった、王羲之の受容を一つの画期と捉え、それ以前の様相について、指標②と指標③に着目しながら研究を進める。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
29年度は、研究全体の基礎作業として、日本の出土史料と共に、近年発見された夥しい量の中国の出土史料の把握を行い、観察対象の収集に努め、次年度以降の準備作業を行った。これらの基礎作業を行うとともに、研究実績の概要で述べた指標のうち、主に①の指標に関連して、奈良時代の王羲之受容について考察を行った。 唐における王羲之の流行を受けて、奈良時代の貴族の間においても王羲之は憧憬の的であったと言われる。これを検証するべく、まずはその根拠とされる『万葉集』の中の「てし」の訓について考察したほか、「憧憬の的」の証拠としてしばしば紹介される、写経所官人が書き残した「王羲之習書」の考察を試みた。すなわち「習書」の中に見られる用語の分析、および内藤乾吉氏が類似を指摘された王羲之『十七帖』との比較を行った上で、「習書」の中の楷・行・草、それぞれの書体の習得状況について分析を試みた。さらに前科研研究において明らかにした、奈良時代における実務官人らの書の受容状況の考察結果と併せて、奈良時代における王羲之受容の諸段階を確認した。すなわち書の技術の習得に先立って、「蘭亭序」に示される書の観念が流入し、技術の習得を支えたこと、その後、楷、行、草と段階を踏んで受容されたことを明らかにした。さらに七世紀以前の古い書法から王羲之の書法へと、皇室における選択的転換が見られることなどを指摘した。以上の考察結果を、論稿「正倉院文書の中の「王羲之習書」について」としてまとめた。 上記の考察と平行して、「集字聖教序」に関しては写真の切り出しを行い、一字ごとの検索を可能にし、研究に活用できるように作業を開始した。さらに、尺牘等に見られる王羲之の書のうち、特に草書体に関して用語から検索できるように、唐代に官庫に納められた王羲之草書を書写したとされる「右軍書記」の入力を開始した。
|
今後の研究の推進方策 |
29年度の基礎作業に基づいて、30年度からは出土文字の観察をやや的を絞って行う。また、可能な範囲で直接観察を行う。以下、研究実績の概要で示した指標に従って述べる。 指標①「集字聖教序」に関しては、三井文庫本の劉鉄雲本・朱臥庵本ほか複数の信頼できる模刻本が存在する。現在このほかに、原碑拓本のコピーが無数に流通している状況にある。文字の形状や異同に関して、いずれも目立った相違は認められない。このことは、実際に「集字聖教序」が普及するにあたっては、実は模刻本や写本ではなく、碑の建立を命じた唐の太宗が意図した通り、碑が効力を発揮したことをあらためて認識させる。以上のことを確認した上で、来年度は原碑の現状確認を行う。 指標②省画の書体と③僧侶の書体に関しては、日本の出土史料についての観察を継続するほか、近年、中国で出土した簡牘のうち関連史料の観察を行う。銀雀山・謝家橋・虎渓山・北京大学所蔵(出土地不明)などの前漢期の簡牘に草隷あるいは隷書が実用の場において捷書されたと言われる書体を含むものが多数出土している。これらは右肩下がりの形状をしており、また捷書による省画も含まれる可能性がある。したがって、後の章草や草書体に繋がるものとして、注目しておく必要がある。 このほか睡虎地秦簡(七七号墓)・敦煌懸泉置・天長・儀徴胥浦・簫家草場・高台・鳳凰山などの前漢簡には草隷が見られ、また走馬楼・敦煌馬圏湾・額済納・尹湾などの漢簡には章草が見られる。 中でも重要なのは、湖南省長沙の東牌楼から出土した後漢簡(七号古井)で、多くの草書体の簡牘が含まれる。後漢代にすでに草書体の普及が見られたことについても日本への伝来を考える上で、十分に注意していかねばならない。 以上、省画の書体や僧侶の書体の解明に繋がる可能性のある出土史料について、必要かつ可能な範囲で直接観察を行い、必要なものについて画像データの収集を行う。
|
次年度使用額が生じた理由 |
①29年度内に海外調査を予定していたが、日照時間の関係上、安全面と気候条件を考慮し、30年度4月に延期した。そのため、充当を予定していた旅費を持ち越した。 ②人件費に関して、データ入力作業従事者が体調不良となったため、予定額にいたらなかった。30年度からは作業従事者が交代する予定。 ③30年度以降に研究が進展した以降、旅費・人件費その他の支出が増加することが予想されるため、29年度はできるだけ使用を控えた。
|