研究課題/領域番号 |
17K03069
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研究機関 | 福岡教育大学 |
研究代表者 |
小川 亜弥子 福岡教育大学, 教育学部, 教授 (70274397)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
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キーワード | 幕末洋学史 / 海外留学史 / 幕末遣外使節 / 長州藩 |
研究実績の概要 |
3年間の研究計画の初年度となる平成29年度は、万延・文久期(1860~1863)長州藩士の幕府遣外使節団への随従と帰国後の動向を明確にするため、山口県文書館と萩博物館を中心に史料調査を実施した。 長州藩の海外留学生に関する叙述の多くは、これまで、末松謙澄『防長回天史』に依拠する形で進められてきた。しかし、『防長回天史』は、引用史料の典拠が明記されていないこと、原史料が判明し相互突き合わせが可能となった場合でも、誤植が多くみられることなどの問題点を内包していた。本年度の史料調査は、このような史料上の制約を克服するための基礎調査として位置付くものである。 長州藩は、藩立の医学館、西洋学所、兵学校及び海軍学校を創設し、医学・語学・西洋兵学・西洋軍事科学技術などの習得を藩士に促すとともに、旅費や学費を補助して長崎・横浜・江戸・大坂などの各地に藩士を派遣し、更なる修業を行わせた。いわゆる国内遊学である。 一方、長州藩は、海外へも相当数の人材を留学させた。尊王攘夷のスローガンが国内を覆っていた万延元年(1860)に、幕府はアメリカへ使節団を派遣した。長州藩は、「開国」後に初めて結成されたこの遣米使節団へ、いち早く藩士を随行させるなど、積極的な動きを見せている。その後、長州藩は、文久元年(1861)の箱館奉行によるロシア領巡航、文久3年(1862)の幕府の遣欧使節団や上海使節団の派遣の際にも、藩士を同行させることに成功した。これらは、幕府の使節へ随従する外国渡航であり、文字通りの留学とは言えないものの、藩士が初めて西洋の異文化に接し異文化世界の人々と接触したこと、このときの経験を藩内に報告したことの意義は極めて大きい。 本年度の史料調査の結果、アメリカ、ロシア領、ヨーロッパ及び上海への長州藩士の渡航が実現した経緯、渡航先での視察の内容、帰国後の動向などを具体的に明らかにすることができた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
年次計画に従い、順調に調査研究が進展している。研究初年度となる本年度の進捗については、次の3点の理由により研究計画全体の約30%の達成度と位置付けた。 (1)万延元年(1860)の長州藩士によるアメリカ視察について解明できたこと。具体的には、①幕末遣外使節の最初となる幕府の遣米使節の一行は77人で、この中には15人の諸藩からの参加者が含まれていたこと、②長州藩からは、同藩の第1次長崎オランダ直伝習生で、勝麟太郎に航海・運用術などを師事し、幕府の軍艦操練所でも学んだ北条源蔵が加わっていたこと、③源蔵のアメリカ派遣が実現した経緯、現地での視察の内容、帰国後の成果などを明らかにできたことである。 (2)文久元年(1861)の長州藩士によるロシア領視察について解明できたこと。具体的には、①箱館奉行によるロシア領巡航の目的は、黒竜江地方での貿易の可能性の調査と情勢の探索であったこと、②長州藩からは、同藩の第2次長崎オランダ直伝習生で、藩の博習堂(西洋兵学研究・教育機関)で海軍学を修めていた桂右衛門と、斎藤弥九郎の剣術塾に入門していた山尾庸三の二人がこの巡航に加わったこと、③右衛門と庸三の便乗の経緯、現地での視察の内容、帰国後の成果などを明らかにできたことである。 (3)文久2年(1862)のヨーロッパ視察と上海視察について解明できたこと。具体的には、 ①岩倉使節団のモデルと言われている幕府の遣欧使節団の任務は、いわゆる両都両港開市開港延期交渉のみならず、ヨーロッパ各国の広範囲にわたる西洋事情の調査研究にあったこと、②長州藩からは、藩主毛利敬親の小姓役にであった杉徳輔が加わっていたこと、③幕府の上海使節団の任務は、上海の貿易事情調査であったこと、④長州藩からは高杉晋作が参加したこと、⑤徳輔と晋作の渡航が実現した経緯、現地で得た知見の内容、帰国後の成果などについて辿ることができたことである。
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今後の研究の推進方策 |
3年間の研究計画の2年目となる平成30年度の研究目的は、文久期(1861~1863)における長州藩士の海外留学と、彼らの帰国後の動向について解明することにある。 その際、次の2点に焦点化し、そのために必要となる史料の調査、資料・文献の収集を実施する。 (1)《文久3年(1861)のイギリス密航の画遂行の経緯に関する再検討と、人的ネットワークの解明》 文久3年(1861)5月、長州藩は、来たるべき開国時に備えるため、志道聞多(井上馨)・野村弥吉(井上勝)・山尾庸三・伊藤春輔(伊藤博文)・遠藤謹助の5人を密かにイギリスへ渡航させた。従来、この渡航の経緯については、『防長回天史』(1907)や『世外井上公伝』(1933)などを下敷きにして説明がなされてきた。しかし、井上馨や伊藤博文、これに関与した佐藤貞次郎の回想に基づく記述であったため、相互矛盾や事実誤認が多々見受けられる。次年度の研究では、長州藩側の第1次史料を駆使し、計画遂行までの経緯を再検討するともに、これを可能にした藩庁中枢の人物とのネットワークについても、具体的に明らかにする。 (2)《文久3年(1861)のイギリス密航留学に関する修学状況と、帰国後の動向に関する実態解明》 イギリスに渡った一行5人は、ロンドン大学教授の斡旋で聴講生としての入学資格を取得するとともに、学業の余暇には、市内の軍事施設・産業施設・文化施設などを巡見した。次年度の研究では、5人のイギリスでの修学状況の実際を克明に辿るとともに、特に、野村弥吉・山尾庸三・遠藤謹助の3人に注目し、帰国後、彼らがテクノクラートとしてどのように留学の成果を発揮したのかという点についても、具体的に明らかにする。
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