研究実績の概要 |
『寛永十年肥後人畜改帳』及び河内国(寛永21年)・備中国(寛永21年)・信濃国(正保・承応期)の「家数人数改帳」を分析に即した形にデータベース化した。これを基に近世初頭期の農民住宅像に関する推論を得た。その一部を示す。 ①河内・備中・信濃では、肥後で屋敷主住居の殆どを占める釜屋本屋分棟型がない。これは、当該地域では、全国普遍であったろう釜屋本屋分棟型が寛永後期以前に大棟一棟型への移行を終え、高塀造り、本棟造り等の祖型を産んでいた状況を示唆する。②肥後合志郡・玉名郡と葦北郡は狭小梁行幅(9尺,2間,2間半)の釜屋本屋分棟型が殆どを占める同文化圏であるが、葦北郡では梁行が3間以上の矩形の本屋が散見される。これは南九州型のものに近い。つまり、薩摩と国境を接する葦北郡での文化的汽水域の形成と、寛永前期以前での南九州型の釜屋本屋分棟型住居の祖型の形成を示唆する。③肥後では高40-100石級の富農でも本屋・釜屋の規模は5~10石の小農と大差ない。また、別棟座敷の所持も請高の大小ではなく、庄屋家や御茶屋など武家応対を要する階層に領主側が用意させたものと思われる。即ち、階層差が主屋の規模や威信材の所持に反映されない傾向がある。要因には、生産活動に直接関係しない事物に関心を示さない慣習や、人力に頼る土地生産収入が主の段階では病気怪我での家内労働力の欠損や働き手の成長による浮沈が激しく、請高の差が長期の維持管理を要する住居には投影されにくいという環境が考えられる。 なお、研究成果報告にはA2・A3版のエクセル表130頁程の提示を要する。論文での公表はサイズと頁数の制約から難しいため、成果報告会を4月11日「城郭談話会 4月例会」(高槻市立総合市民交流センター4階第4会議室)で2時間程行うことが昨年11月に決定していた。しかしコロナウイルスによる公共施設の封鎖により5月9日への延期が決定した。
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