以前の調査で撮影した三沢市先人記念館の史料を翻刻した。幕末、会津藩の公用方として三沢の谷地頭に牧場を開いた広沢安任に関する史料で、すべて明治期のものである。撮影したのは、安任あての来簡、安任のメモ類、安任自作の漢詩である。書簡のなかには、西郷頼母・山川浩・手代木勝任・柴太一郎・小川渉など会津藩出身者もあり、維新後も旧藩のつながりが維持されていたことがわかる。また、松方正義にあてた安任の書簡の草稿もある。新政府とのパイプをどのように気づいていったのか、そこに幕末における活動がどのようにかかわっていたのかはより詳細の分析が必要となる。漢詩類からは、まるで晴耕雨読の隠者のような印象をうけるが、その一方、メモ類に目を落とすと、日本の経済に多大なる関心を払っていたことがうかがわれ、自らの牧場経営が日本経済の発展の一端に位置づけていたことがわかる。 なお、1月には、三重県史編さん室所蔵の広沢の書簡3通を含む成川尚義宛書簡の巻子を撮影した。成川が大蔵省在官していた明治16年の書簡では、不景気の打開策として外債募集を提起している。 また、今年度のテーマである南部藩士・那珂梧楼に関する史料調査も行った。那珂は弘化2年(1845)、南部藩を脱藩し諸国を遊歴、吉田松陰をはじめ全国の名士と交わり、南部藩に復帰後は儒者として藩校の教育に従事する傍ら、脱藩時代に培った広い人脈を探索周旋活動にも携わった。維新後は大蔵省・文部省に出仕している。那珂の史料は岩手県立図書館と岩手県立図書館が所蔵しており、そのうち、来簡・日記・意見書を中心に撮影を行った。翻刻・分析はこれからだが、幕末以来つちかったネットワークが南部藩および彼自身の幕末維新期の足跡にどのような影響を与えたのか、これらを通じて考察していきたい。
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