組織として見た時、戦後の柳田民俗学は、早い段階で再開している、一九四五年九月九日には、中断していた談話会「木曜会」の例会が復活し、弟子たちと民俗談義が交わされている。さらに一九四七年には六人社より、『日本民俗学のために』(全一〇巻)が刊行され、以後四年をかけて全巻が完成する。この論文集は柳田の古稀を祝う目的で一九四三年の段階で執筆陣の選定が行われており、各人から発表題目、枚数の概算など、細かな計画がなされていたものだったが、はからずも思想環境として柳田の民俗学の不易性を裏付けることになった。 戦後の数年間とは、民俗学がひとつの学問領域として周知された時期でもある。一九四九年四月、「民間伝承の会」が日本民俗学会へと発展解消したことは、民俗学が専門的な学者集団の組織となったことを意味した。柳田は初代会長に就任したが、名称を変えるにあたって、それまで「民間伝承の会」が多く各地の郷土史家によって支えられてきた経緯を重視し、学会となることによって、そうしたかつての支持層を失うかもしれないとして、これに躊躇したことが紹介されている。 1930年代、『木綿以前の事』に収められた論考の中で柳田は、民俗学の視点から俳諧の持つ教授機能を高く評価した。この主張には、民俗学もまたそこで生活する側の感覚を大切にすることを強調する側面があった。この文脈に沿うならば、民俗資料の扱いとは、本来、採集だけに止まらず、分析もまた各地で感覚を共有する郷土研究会に比重が置かれることを当然とした。戦後、「民間伝承の会」の学会化は、これら既存の郷土研究会の活動の自在性を減じさせるとともに、柳田民俗学そのものを縛ることとなった。
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