前年度に引き続き、19世紀フランス・オート=ザルプ県における山岳地の植林や酪農組合に関わる文献を調査した。前年度に検討したブリオやシュレルに続くものとして、セザンヌやビュフォーのものを分析し、比較検討を通じて、荒廃山岳地の復元・保全における酪農組合普及の位置づけの変遷を跡づけ、その背景や意義を明らかにした。このうち、セザンヌは国会議員として1870年代に酪農組合の普及に尽力した人物で、オート=ザルプ県だけではなく、パリにおいても活動した人物であり、その酪農組合普及に関わる提言の分析を行った。また、ビュフォーは、20世紀初頭に活躍した森林官であるが、その当時には酪農組合の衰退は否定できない状況であり、その要因に関する考察を分析した。 加えて、酪農組合の普及に関して、県会議事録や前年度までに収集した県文書館の史料の分析を進めた。とりわけ、県中北部シャンソール地域に存在する2つのコミューン、オルシエール・コミューンとサン=ローラン=デュ=クロ・コミューンに所在する模範組合を中心に分析を行った。このうち、オルシエール・コミューンでは山岳地の植林事業をめぐり、住民との軋轢が存在していたことを国立文書館所蔵の史料によって明らかにするとともに、彼らを懐柔するために酪農模範組合を設置しながらも、円滑に経営、運営をすることができず、衰退したことを明らかにした。それに対して、サン=ローラン=デュ=クロ・コミューンでは、山岳地の植林事業の影響は少なく、しかし、同じく酪農組合が設置され、有利な立地条件を生かして、その後、発展を遂げたことを明らかにした。この両コミューンの酪農組合の実態を比較検討することで、特に公益と私益との融和の現実と課題の観点から山岳地の植林における酪農組合普及政策の持つ意義と限界を明らかにし、ひいては、当時のフランス社会の性格や資本主義経済のあり様の一端を剔出することができた。
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