本研究は、時間的には征服=入植運動の起点をなす12世紀後半から14世紀後半まで、空間的にはアラゴン南部、ことに同地域できわめて高い比重を占めたテンプル騎士団領(1317年より聖ヨハネ騎士団アンポスタ管区に統合)を中心に、征服=入植運動をつうじて展開した城塞集落の簇生という現象を、地域内外の財貨交換ネットワークの形成という観点から具体的かつ実証的に再検討するものである。 最終年度にあたる本年度は、アラゴン王国南端の集落プエルトミンガルボと濃密な社会経済的浸透性がみとめられるバレンシア王国北端の隣接集落ビリャエルモーサに注目し、後者を筆頭集落とするアレノスのバロニア(貴族領)が、カスティーリャ戦争のさなかでなかば常態化した補助税ならびに度重なる領主援助金の要求にいかに対処したかを、ほぼ新出の1370年代の世帯申告記録の綿密な分析をつうじて明らかにした。 研究期間全体としては著書1点・学術論文5点の成果をみており、従来は対立的に捉えられた封建制と商業とがもとより親和性が高く、むしろ両者が共振しつつ発達を遂げるものであったことを、それら全編をつうじて明らかにしている。すなわち、①伝統的に商業不在の空間とみなされてきたアラゴン南部で、征服=入植運動により一挙に生み出された封建的空間編成そのものが域内分業に基づく自生的な在地商業の発達を促した。②それはアラゴン王国の中心どころかむしろ外、すなわちバレンシア王国北部の財貨交換ネットワークと一体化しており、両王国の政治的な境界はおよそ意味をなさない。③14世紀後半に戦費調達に迫られた王権の度重なる補助税要求は各王国議会の発達と同時に、国家による既存の財貨交換ネットワークの組織化を促したが、王国間商業とはあくまでもその結果であって、財貨交換ネットワークそのものを生み出す契機ではけっしてなかった。
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