本研究の課題は、1943年に本格化した米軍のヨーロッパ戦線における精密爆撃がどのように修正され、最終的に地域爆撃・絨毯爆撃に転換したのか、という問いである。最終年度は前年の研究活動に基づき、ヨーロッパ戦線からアジア戦線への爆撃作戦の移行プロセスを解明するために、イギリス国立公文書館と英国図書館地図室での調査を行った。とくにヨーロッパ戦線からアジア・太平洋戦線における爆撃地図の作成へと重点が移された1944年の史料を調査した。アジア・太平洋戦線においても、米英両国の地図作成部隊の協力は緊密であり、イギリスを通じて提供されたオランダやフランスの植民地地図から日本占領下の東南アジア地域の地図が作成された。対日爆撃標的地図の作成に関しては、1944年からアメリカ海軍が担い、1945年1月には日本の大都市産業地帯である東京、川崎、横浜、名古屋など撮影された航空写真をもとに爆撃標的地図が作成された。対日爆撃戦略が本格化する直前の1945年2月、ドレスデン空爆に象徴されるように、ヨーロッパ戦線において顕著に地域爆撃が行われるようになった。ドレスデンから東京へ地域爆撃は引き継がれた。ヨーロッパでの戦闘終結後、アメリカ陸軍航空軍の地図作成部隊がアジア・太平洋戦線に移動し、撮影された航空写真をもとに大都市のみならず広島を含む日本全国の主要都市の爆撃標的地図を作成した。米英の協力体制、また米軍内での役割分担という総力戦により日本は完全に地図化された。この調査研究の成果として、論文「『日本地図化』の総力戦―第二次世界大戦期、米軍の対日爆撃標的地図作成―」をまとめ、最終年度に出版した。2018年3月出版の「プロエスティ・レーゲンスブルク・シュヴァインフルト―米軍白昼精密爆撃戦略のゆらぎ、1943年ヨーロッパ戦線」とあわせて、当初アメリカ軍の「精密爆撃」の「地域爆撃」への転換を明らかにできたと考える。
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