研究課題/領域番号 |
17K03196
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研究機関 | 中部大学 |
研究代表者 |
河内 信幸 中部大学, 国際関係学部, 教授 (40161278)
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研究分担者 |
福島 崇宏 松蔭大学, 公私立大学の部局等, 講師 (50778389)
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研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2021-03-31
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キーワード | パブリックアート / 全米芸術基金 / 連邦施設管理庁 / ニューディール芸術政策 / 抽象表現主義 |
研究実績の概要 |
ロサンゼルス市文化部パブリックアート課(Department of Cultural Affairs, City of Los Angeles)を訪問した時に入手できた資料、たとえばCOLA 20(20th Anniversary of the City of Los Angeles: Individual Artist Fellowships Program)等の分析をおこなった。その結果、パブリックアートが都市再生のシンボルとなり、新しい都市のアイデンティティを形成していく公益性がロサンゼルス市の都市形成に重要な役割を果たしていることが分かった。 また、ワシントンD.C.の全米芸術基金(National Endowment for the Arts:NEA)を訪問して入手した資料の検討を行い、全米芸術基金が1965年に連邦議会によって設立され、議長は大統領が任命する組織であることも理解できた。そして、全米芸術基金が、アメリカにおける芸術政策の変遷とその特徴を体現している組織であり、日本との間には、友好委員会が設置されていることも分かった。 そのほか、重要な資料となるGoing Public: A Field Guide to Development in Art in Public Places (1988)、National Endowment for the Arts, Appropriations 1966-2001などの存在を確認し、政府報告書である『文化発展の戦略』(A Strategy for Cultural Advancement)(1961)、『芸術と政府』(The Arts and the National Government)(1963)などの検討も行った。そして、パブリックアート政策の推進には、民間団体が大きな役割を果たしていることが分かった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
アメリカのパブリックアート政策に関する先行研究の分析とともに、現地調査を通して基盤となる資料収集をほぼ終えることができている。アメリカでパブリックアートという概念が成立するのは、1960年代に設立された連邦政府による2つの芸術プログラム、すなわち、①全米芸術基金(NEA)による「公共空間アートプログラム」(Art in Public Places)(1967年)と、②連邦施設管理庁(GSA)による「連邦政府の新築建設における美術プログラム」(Fine Arts in New Federal Buildings Program)(1962年) によってであった。 世界でいち早くパブリックアート・プログラムを開始したのはスウェーデンであり、1937年に全国パブリックアート評議会(National Public Art Council)を設立したが、アメリカでは、すでに1933年にニューディール芸術政策が開始されていることも忘れてはならない。このように、パブリックアート政策の展開に関して、研究がグローバルな視野へと広がっている。 このように、研究はおおむね良好に推移してきているが、昨年度体調を壊したことも有り、1年ほど研究期間を延長して研究の完成を目指したい。特に、資料や文献の検討がまだ残っており、それらに取り組み、研究を完成させる。
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今後の研究の推進方策 |
「公共空間アートプログラム」と「連邦政府の新築建設における美術プログラム」という2つの芸術プログラムは、ともに1960年代に開始されたが、すでに1950年代の経済発展によって、文化政策の萌芽が生まれていることが分かった。1950年代後半には、それまでヨーロッパから軽視されてきたアメリカ美術が国際的に認められるようになり、抽象表現主義を中心とするアメリカ美術展が世界各国で開催されるようになった。 そして、1960年代になると、市民社会が成熟していく過程で、公共空間における「公共性」とは何かを問う議論が重ねられた。その結果、「ニュー・フロンティア」を掲げたケネディ政権の下で、国家芸術政策が形成されたのである。その方向性は、『文化発展の戦略』(A Strategy for Cultural Advancement)、『芸術と政府』(The Arts and the National Government)という2つの報告書に示されているので、今後は連邦政府と芸術文化政策の関係性を検証していく。そのなかで、1965年に設立された全米技術基金(NEA)の意義を明らかにしていく。 さらに1970年代は、文化政策の地方分権化が世界的潮流となり、地方政府・自治体による芸術支援政策に力が入れ始めていった。その結果、パブリックアートは、「アートのための%」法の制定が地方都市で増加していき、次第に連邦政府主導から地方都市へとパブリックアート政策の権限が移譲されていった。このように、1950年代から1970年代へと視野を広げ、パブリックアートの変化を研究する。
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次年度使用額が生じた理由 |
アメリカのパブリックアート政策は、1970年代に地方分化していった。しかし、1970年代は同時に、政治的な安定性を欠いた時代であった。それは、1960年代終盤にリチャード・M・ニクソン(Richard M. Nixon)が大統領に就任し、ウォーターゲート事件で失脚した後、ジェラルド・R・フォード(Gerald R. Ford)が後継者となり、70年代後半からジミー・カーター(Jimmy Carter)が政権を握るというように、アメリカ政治が大きく動揺した時代であった。また、スタグフレーションという深刻な経済状況もあったため、パブリックアート政策も、アメリカの政治や経済の不安定化の影響を受け、ニクソン、カーター政権下で全米芸術基金(NEA)も変化していった。このようなアメリカの政治・経済の動揺とパブリックアート政策の関係を明らかにするため、科研費を使いたいと思う。
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