最終的に、東京・大阪・京都・横浜・名古屋・広島の衆議院議員と市会議員の兼職、府県会議員と市会議員の兼職について、市制施行後から戦前期全体を通じたデータを確定することが出来た。東京市選出衆議院議員中の東京市会議員の兼職者は、戦前期全体の平均で、28.46%にのぼり、兼職者が3割近くに及んでいた。他方、横浜市では、大正13年の第15回衆議院議員選挙までは、兼職者が少なく、それ以降定数が3となってから、常に1名が兼職者となっている。地理的にはより遠い、名古屋市選出衆院議員は、明治~大正中期まで、定数1または2の名古屋選出議員のほぼすべてが兼職議員となっており地理的な距離・移動の簡便さからだけでは兼職議員数の多寡は説明できないようである。同様に大阪市選出兼職衆議議員は、明治36年まで事実上ゼロ人であり、明治40年代以降急速に増加して、30~40%を占めるようになる。地理的に近い京都では、明治初年から断続的に1、2名の兼職議員を数える。広島は明治時代の30-40年代に兼職議員1名を断続的に数えるが、他の府県と違い政党政治期とそれ以降兼職議員が不在となるという他府県とは異なる変化を示した。 府県会議員と市会議員の兼職では、明治22年の第一回市会議員選挙に於いて府県会議員との兼職者が著しく多数で、東京で48%、大阪31%、京都で33%を占めた。また、横浜19%、名古屋38%、広島33%を占めた。この数字は、既に府県会議員であったものが、新たに設置された市会に対して立候補・当選することによって生じた数字であって、何故かくも多数の兼職議員が生まれたのか、原因の究明が必要である。考えられるのは、東京京都大阪では、三市の市制特例が市長助役をおかず知事・府書記官をもって代行させるなど、市会議員としての活動が府知事・府庁に向けられるものとなり、府会議員との兼職の必要性が感じられたからかもしれない。
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