研究課題/領域番号 |
17K03575
|
研究機関 | 山形大学 |
研究代表者 |
松本 邦彦 山形大学, 人文社会科学部, 教授 (40241682)
|
研究期間 (年度) |
2017-04-01 – 2020-03-31
|
キーワード | 植民地支配 / 植民地朝鮮 / 日韓関係 / 在日朝鮮人 / 民族教育 / 多文化共生 |
研究実績の概要 |
今期は朝鮮学校と外国人教育をめぐる基礎的な資料の収集とともに、戦前期の植民地統治の一翼を担い戦後も言論界で活躍した人物でありながら、あまり注目をあびてこなかった鎌田澤一郎を中心に資料収集を進めた。まだ概略にとどまるが、鎌田の生涯と業績について以下にまとめておく。 鎌田は1894年(明治27年)生まれ、学校教育は高等小学校までで、1979年に没するまで、公職や研究職、教育職には就かなかった経営者、ジャーナリストである。郷土徳島で文化活動を始め、兵役後に経済界に進出、さらに上京して出版業に進む。文化人や経済人との交友を深める一方で、鶴見祐輔、後藤新平、また鐘紡経営者・武藤山治の政界浄化運動を応援。鶴見を介して陸軍大臣時代の宇垣一成の側近となり、1931年の宇垣の朝鮮総督赴任とともに朝鮮に渡る。総督顧問をしつつ独自の研究所を設立し、講演や著作にて宇垣の「南棉北羊」政策を支持、宣伝をおこなう。1936年に宇垣が総督を辞したのちも朝鮮にとどまり、総督府支配の一翼を担ったが、南次郎総督らの創氏改名、内鮮一体政策を批判したことがあり、後年の鎌田は、これもあって戦後も朝鮮人からの感謝ありと誇っていた。敗戦後に鎌田はほぼ無一文で引揚げたが、文筆で宇垣の政界進出を支持する一方で朝鮮戦争を機に在日朝鮮人問題や日韓問題で精力的に発言し、李承晩の反日政策を批判、そしてその後の朴正煕の維新革命やセマウル運動を支持した。 戦後の鎌田の主張が在日朝鮮人政策に与えた影響はまだ判然としないが、朝鮮支配が「宥和と培養」であったという主張(1950年『朝鮮新話』など)が、日韓交渉を決裂させた1953年の久保田発言に影響していた可能性が判明し、彼の戦後日韓政策への影響力は意外に大きい可能性も出てきている。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
最近の朝鮮学校無償化問題をめぐる訴訟や在日外国人教育についての資料収集を進めるとともに、鎌田澤一郎についての資料収集を進めた。 鎌田が晩年に故郷の徳島県松茂町に建てた財団法人鎌田民族学綜合資料館は既になく、所蔵資料も県などの資料館に移管されることなく散逸したと推定されるが、鎌田が一般雑誌に執筆していた記事や鎌田の喜寿記念の出版書、さらに短歌結社「覇王樹」の機関誌で彼が連載していた随筆などによって、断片的だが活動内容が分かってきた。彼自身の多弁により、鎌田の交友関係が文化人や経済界、政界まで非常に広く、かつ1970年代まで長期にわたることが判明してきたものの、それらを裏づける為の資料が意外と少なく、収集は十分には進められていない。これは彼が長く仕えた宇垣一成の一種の黒衣であったこととも関係していると見られる。たとえばいわゆる宇垣日記の人名索引では鎌田は登場しない(「鎌田」とのみ言及されているため)。 他方で鎌田が批判対象としていた矢内原忠雄などの“英米流”の植民地政策学者と植民地朝鮮との関わりを調べるなかで、矢内原の門下生の中に朝鮮統治に深くかかわった人物として村山道雄(戦後の山形県知事)が浮かび上がった。彼はアララギ派の歌人でもあるが、鎌田自身も歌人であるのみならず短歌結社「覇王樹」の朝鮮支社を主宰し、朝鮮では最大勢力と自称していた。村山のような存在は文化人たちと植民地統治との関わりという視角からも興味深く、調査対象として考慮したい。
|
今後の研究の推進方策 |
二年目の今期は、昨期の補充として、鎌田澤一郎が特に戦後の日韓関係、在日朝鮮人政策に与えた影響について調査を継続する。また、植民地朝鮮行政にかかわった人物の戦後在日朝鮮人へのまなざしという点で鎌田澤一郎にとどまらず、広く調査を進める。 また当初の予定どおり、朝鮮学校の処遇とをめぐる議会での審議状況と、世論、識者の主張との影響関係を、宮城県議会と東京都議会を中心にして調査を進めていく。特に行政からの支援が開始したころ、停止したころを中心にしていく。その中で議員や世論の動向に影響を与えたであろう識者たちの典型的な主張が分かると思われる。 資料収集の対象団体としては、上記のような国際化協会や外国人支援者の団体にくわえ、外国人参政権や朝鮮学校補助に反対するために地方議会に対して積極的な働きかけをしてきた団体として「永住外国人地方参政権に反対する国民フォーラム」や「日本会議」、保守派議員の組織「教育再生地方議員百人と市民の会」についての調査も進める。
|