本研究は、高齢者に焦点を当てて、経済状況が個人の時間選好・リスク選好に与える影響を検証することを目的とした。米国ミシガン大学の個票データ「健康と引退に関する調査」(Health and Retirement Study)を利用し、無作為に決定するアンケート調査日と年金受給日との間の日数を経済状況の外生的なバリエーションとして利用した。 分析の結果、年金受給後のお金がある状態と比べて、年金受給日前のお金が欠乏している状態ではリスク許容度が高まることが観察された。この傾向は、世帯所得に占める年金受給額の割合が大きい世帯や、貯蓄額が少ない世帯で顕著であった。これらの結果から、流動性制約が個人の選好に影響を与えている可能性が示唆された。一方で、年金受給日前後における時間選好の有意な変化は観察されなかった。メカニズムを検証するために、年金受給日前後における認知機能の変化を検証したが、有意な変化は示されなかった。代わりに、年金受給日前後における抑うつ状態に有意な変化が観察された。さらに、日本の個票データ「くらしと健康の調査」を利用して、公的年金受給者にサンプルを限定して分析を実行した。結果、年金受給日前にリスク許容度が高まる傾向が観察され、米国のデータを使用した分析と一致した結果が得られた。時間選好については、日本のデータを使用した場合も有意な変化は認められなかった。 本研究には2点の貢献がある。第1に、分析者の知る限り、貧困状態が高齢者の選好に与える因果効果を推定した最初の研究である。第2に、リスク選好の安定性に対する議論に新たな結果を加えた研究である。先行研究では、紛争や自然災害、不況など、比較的規模の大きいショックがリスク選好に与える影響が検証されてきた。本研究では、常日頃生じる年金受給といった所得のショックも選好に影響を与える可能性を示した。
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