本課題は19世紀のヨーロッパにおける音楽の普及について、劇場という場とそこでの演奏、そして物理的媒体としての出版楽譜の関係を軸に考察するものである。交響曲に代表される純粋器楽の美学においてはその対極としての「劇場性theatricality」が批判対象になった一方で、「劇場」自体は近代ヨーロッパの都市生活において、単に舞台芸術を提供する場として機能していたのではなく、公共の社交生活空間として、音楽ジャンル形成および普及に寄与し、諸階級の余暇活動、流行発信などの面でも重要な役割を果たしていた。音楽の社会史研究が従来、音楽受容の現場としてコンサートに注目してきたのに対し、劇場という場はクラシック音楽/ポピュラー音楽というカテゴリー形成において無視できない役割を果たしていた。本課題の第一の目的は西洋近代の都市における劇場という視角から音楽活動を考察することであるが、それは同時に音楽学・美学・歴史学・演劇学を横断する形での新たな文化社会学の試みである。 2019年度は19世紀のイギリスの新聞・雑誌資料、また当時の劇場での歌い手の手記を調査し、どのような楽曲がどのように出版されていたかという点について情報収集し、音楽史には記述されてこなかったポピュラー音楽の流通の実態についての全体像を解明することに努めた。その調査に基づき、従来の楽譜出版研究ではほとんど顧みられなかった「取るに足らない」大量のポピュラー音楽が、多種多様な業者によって出版されてきたこと、その中で特に人気のあった楽曲ジャンルを明らかにした。 2019年度はそのうちの一つのジャンルであるアマチュア合唱について、その理論的考察を行い、国際学会で発表を行い、論文としてまとめた。
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