戦後教育改革期における養護訓導・養護教諭制度は、教育刷新委員会での議論では、他の懸案事項への取り組みの優先により脇に置かれていた。積極的な検討がなされない理由として、教育刷新委員会の中に専門家の参加が見られなかったことによる。一方で、文部省内の担当部局では議論は活発に展開されている。その一端は、1949年に公にされた中等学校保健計画実施要領(試案)の内容からも確認できる。学校保健政策上の役割は、同試案により明らかになったが、その役割を担う専門家の養成については、政策上、表だって議論されていない。そのため、新制大学における学芸学部・教育学部の設置段階で養護訓導・養護教諭養成の制度形成までは手が回らなかった。改革の進行から後れをとっていために、改革の内側で展開されるのではなく、戦前・戦中にまで遡って、看護婦養成と連動した免許状交付の現実的路線へと政策上の舵を切った。このことが、養護教諭養成がその後30年の遅れをもたらしている。 一方で、1958年の学校保健法の成立にともなって、養護教諭制度の遅れを取り戻すべく、様々な点において同職の職務上の役割が明確化することになる。しかし、職務の明確化は、抽象的な言語表現の中に、創造的実践の形態としての法・制度の意味を付与したがが、養成における専門職養成の明確化と連動することなく、現職教育として教育委員会での伝達講習のレベルに落とされることになった。同課題は、今日に至ってもなお議論の対象とされているように、学校教育理念との総体の中で新たな職種の存在と役割、位置づけが求められており、その議論が、時間軸の中で未だ取り残されている形となっている。
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